2009年3月31日火曜日

オバマの対テロ戦争と日本---アフガン「包括的新戦略」を検証する

オバマの対テロ戦争と日本---アフガン「包括的新戦略」を検証する

1 「包括的新戦略」は失敗する

 去年の十一月下旬、「アフガニスタンの和平、あるいは「平和構築」?をめぐる断章」の中でぼくは次のように書いた。
 
 「米国が共和党ブッシュ政権から民主党オバマ政権に変わろうとも、イラクからアフガニスタンへと対テロ戦争の主戦場をシフトすることに変わりはない。今日(11/26/2008)のニュースで、オバマはゲーツ国防長官の、少なくとも一年間の留任を決定したときいた。アフガニスタンの「復興」プロセスにおける米軍の大量部隊の投入、全面的軍事介入の開始は、党派を超えた米国の「国益」をかけた国家戦略として位置づけられているということだろう。

 今まで以上の戦争分担金の負担、そして自衛隊の「貢献」をめぐる米国からの対日要求が高まることは必至である。自衛隊の海外派兵「恒久法(一般法)」制定の論議を再燃させながら、早ければ2009年中にも、イラクの時と同じように、時限立法の制定を含めた派兵に向けた具体的な動きがでてくるだろう」(引用終わり)

 あれから四ヶ月が経ち、オバマの「包括的新戦略」が発表された。特徴は四点ある。
①対テロ戦争の前線をただ単にイラクからアフガニスタンに移しただけでなく、
②パキスタン(のアフガニスタンとの国境地帯)をも主戦場化し、
③さらにこれにNATO諸国はもちろん、イランの参加を目玉にしながら、国連機関をも全面的に巻き込もうとしていることにある。そして、
④日本がその最大のドナー(資金提供国)の一つとして予め位置づけられていたことはいうまでもない。

 アフガニスタンのいまを知るための予備的知識として、まずは下に示した三つの地図と図表、そして関連サイトをみてほしい。

 最初に下の地図。これは「安全保障と開発に関する国際会議」(ICOS)が作成した、昨年十一月段階のアフガニスタンにおけるタリバーンの勢力分布図である。色の濃淡と数字が、タリバーンの地域的な制圧度合いを示している。
 すでにタリバーンは首都カブールの軍事境界線を突破したという情報もあるが、この地図をみれば、タリバーンが一部の山岳地帯の洞窟を拠点に展開しているのではなく、明らかにアフガニスタン全土にわたってその勢力を伸張させていることがわかるだろう。
 

 二〇〇一年十月のブッシュのカブール空爆に始まったアフガニスタン戦争は、ブッシュが権力の座から降りた時点で敗北していたのである。オバマはその敗北を敗北として認めず、タリバーン「強硬派」との全面戦争を準備し、それに「国際社会」を引き入れようとしているのである。

 次に、上の地図を日本政府が国際協力機構(JICA)を中心にしてアフガニスタンで行ってきたプロジェクトの位置関係の地図と、さらにその下の日本の「アフガニスタン復興支援」なるものの内容と対照してほしい。これらはいずれも外務省のサイトに掲載されているものである。



  地図にある日本が「連携」しているPRTとは、「地域復興チーム」というもので、米軍やドイツ軍その他の国の軍隊と「民間セクター」が共同して「復興」活動を行う、「軍」と「民」が一体化したプロジェクトのことである。外国軍がタリバーンと戦闘し、武力行使しているPRTに日本が「連携」しているのだから、これは明らかに「武力行使との一体化」となり憲法違反であると思えるが、日本政府の解釈では「憲法九条に基づいた活動」ということになる。

 それにしても、このブログを訪れてきてくれた人は、上の地図と表をみて何を思うだろうか。
 日本政府は、二〇〇〇億円以上にのぼる納税者の血税を使い、アフガニスタンの何を「復興」してきたのか。「平和構築」の名において、どのような「平和」を「構築」してきたといえるのか。戦争と破壊、破壊と「復興」、そしてまた戦争。終わりが見えない殺戮と止むことのない人々の阿鼻叫喚・・・。

 「日本の得意分野」と長年宣伝されてきた「武装解除」をはじめ、何もかもが失敗に終わったことを、ぼくらはいま、確認できる。DDRもクソもない。タリバーンは、日本がDDRを終了した、まさに二〇〇六年には地方部で勢力を回復しはじめていたのである。「治安」も「インフラ」も、アフガニスタンの人々の「基礎生活」も何もかもが滅茶苦茶な状況にある。それが二〇〇二年からはじまった、日本のアフガニスタンにおける対テロ戦争「後方支援」の政策的かつプロジェクト的総括でなければならないだろう。一言でいえば、⇒いかなる意味においても、アフガニスタンに平和は「定着」しなかったのである

 そして、いま「包括的新戦略」という新しい名前の対テロ戦争がはじまろうとしている。日本は、自公連立政権は、「復興支援」の何の総括もなさぬまま、これから全面的にこれに「協力」しようとしている。破壊しては再建し、再建しては破壊する・・・。その財源の一切合財は、米国でも日本でも、これからも永遠に、ぼくら主権者の懐の中から出てゆくのである。

 この七年半に及ぶ対テロ戦争の敗北を、軍事技術的な側面と外部からの開発援助の規模の問題に矮小化する限り、「包括的新戦略」の敗北も目に見えている。その敗北の政治責任のすべてを、タリバーン「強硬派」とアルカーイダのみに転嫁することは許されない。

2 「ブッシュの戦争」を継承する「オバマの戦争」に試される日本

 米国という世界のスーパーパワーが、
①イギリスやフランスとの密接な打ち合わせの上で---もっと言えば、ロシアや中国の了承も取りつけた上で、
②ソマリアやアフガニスタンなど、内戦状態にある国の政府を前面に押したて、
③安保理内外の国々を巻き込み、「コンタクト・グループ」(ソマリア、アフガニスタン)や「支援国(friends)グル-プ」(パキスタン)をなどを結成し、
④米国自身の「安全保障」と「国益」に基づいた「包括的戦略」に沿った「決議」を、国連安保理や将来的には国連人権理事会などであげ、
⑤それに「国連開発計画」、「国連食糧計画」、「国連環境計画」などの主だった国連機関を総動員しようとしたらどうなるか?

 いまの国連システムの下では、どうすることもできない。ブッシュの対テロ戦争の破綻がそうであったように、世界は米国政府が犯す失政の道連れになるしかない。それがいま再び、アフガニスタンでくり返されようとしている。

 自公連立政権の十年をふり返ってみると、「主体的な外交」を語りながら、その中身はひたすら対米追随路線をひた走ってきただけであることがよくわかる。「世界の中の日米同盟」宣言以降は、この傾向が特に著しい。事が外交と安保に関わる限り、共和党政権であろうが民主党政権であろうが、結局は同じことなのである。

 外務官僚の頭の中には、毎年度確保した予算を粛々と執行し、次年度の予算規模と省益を拡大し、外務省系列の独立行政法人、公益法人や財団法人、国際機関、大学教授など、将来の天下り先を確保することしか念頭にないのではないか、そもそも膨大な血税を使い(浪費し)行われる外交・安保政策を抜本的に見直し、「総括する」という言葉は外務省の辞書にはないのではないかと思えてくる。
 客観的情勢が「違う方向に進むべし」と命じているにもかかわらず、軌道修正もままならない。その結果、ぼくらの税金はドブに捨てられるように、失敗することが運命付けられた「プロジェクト」なるものに浪費され続けるのである。丸七年に及ぶ、日本のアフガニスタン「復興支援」なるものは、まさにこの典型である。

 すでに米国国内でも批判があがり、G20内でも微妙な「温度差」が露わになっているオバマのアンガニスタンとパキスタンを串刺しにした「包括的新戦略」。当面、四月十七日に東京で「パキスタン支援国会合」が開催されることになっている。例によって、何もかもがすべてお膳立て済みであるが、マスメディアはもちろんのこと、日本の国際協力NGO、開発NGOをはじめ、「平和構築」「人間の安全保障」「紛争予防」やアジア・中東・アフリカ地域を専門とする大学研究者がこの会合にどのようなスタンスが取るかが試されている。それをこれから考える準備作業として、この間日本政府・外務省がどういう「主体性」を発揮し、何をしてきたのか、まずは外務省の公式文書を通じて理解を深めておこう

⇒「オバマの対テロ戦争と日本---アフガン「包括的新戦略」を検証するNo.2」へ 

参考記事
国連人権理、米国が初の理事国入り オバマ協調路線反映
2009年5月13日【ニューヨーク=松下佳世】朝日新聞

国連総会は12日、国連人権理事会(47カ国)の改選を行い、6月に任期満了を迎える18カ国に代わる理事国(任期3年)を選出した。「イスラエル非難ばかりしている」などと同理事会を批判し、参加を拒んできた米国が初めて立候補し、06年の発足以来初めて理事会入りを果たした。

 当選には国連加盟国(192カ国)の過半数に当たる97カ国の賛成が必要で、米国は167票を得た。「西欧その他」枠では、立候補を予定していたニュージーランドが米国に譲る形で辞退したため、改選数3に候補が3カ国しかいない信任投票となった。

 米国の理事会入りは、国際社会との協調や人権を重視するオバマ政権の誕生による「変化」を印象づけるとともに、内側から組織改革を促す狙いがある。
 同理事会は、人権問題を専門に扱う国連の常設機関。前身の人権委員会を格上げする形で06年6月に発足した。

2009年3月30日月曜日

永遠の安保、永遠の米軍基地、そして永遠のテロル

永遠の安保、永遠の米軍基地、そして永遠のテロル

 世界的な米軍再編に伴い、二〇〇八年十月一日、米軍の「アフリカ司令部」、AFRICOMが正式に発足した。これで六つの独立した米軍司令部が、地球をスッポリ包み込み、分割・支配する体制ができあがった。
 ブッシュが残した人類への遺産。永遠の安保、永遠の米軍基地、永遠のテロルの時代の幕開けである。⇒下の地図はペンタゴンの広報サイト、Defense Linkより。


 世界中に拡大する米軍基地。下の米軍基地の配置図をみると、ヨーロッパにおいては第二次世界の敗戦国、ドイツとイタリアが真っ黒になっているのがわかる。そして米国の戦略的同盟国、イギリス。
 世界の真ん中に、米軍基地で黒こげになったイラクとアフガニスタン。そしてイラク北西の、西洋社会とNATOへの参加にヤッキになっているトルコから、ぐるっとアジアに目を転じると、同じく第二次世界大戦の敗戦国日本、そして米国に「解放」された韓国がみえる。(地図のPDFデータはGlobal Policy Forumからダウンロードできる

 この米軍基地の世界地図が、AFRICOMの創設を突破口に、これからソマリアをはじめ、アフリカ大陸各地に広がろうとしている。

ところで、海上自衛隊がアデン湾での「護衛」活動を開始した。アラビア半島の南の国、オマーンからソマリアの北、ジプチの間を往復しながら、日本「関連」の船舶を「警備」するのだという。
 オマーンには海軍と空軍の米軍基地があり、ジプチにも米軍基地がある。これで日本の海上自衛隊は、「補給支援」活動と合わせて、インド洋からアデン湾にわたる「海賊・武装強盗」との戦いの名において、米軍の「中央司令部」CENTCOMとAFRICOMの両方と「連携」しながら展開することが既成事実化したわけである。現行憲法の下で、である。
 
 日本のマスコミの「海賊」報道。何かが決定的に欠けている。意図的ともいえる、情報操作がある。あるいは無知がある。
 PACOM、CENTCOM、そしてAFRICOM。「アジア太平洋」から「中央アジア・中東」を経て、「アフリカ大陸の東海岸」に至るまで、「多国籍軍」という体裁を取りながら自衛隊と米軍との共同作戦体制が構築されはじようとしている。問題は、これにいつ「アフリカ大陸」へ陸自の部隊の上陸が実現するかである。

 いま国連安保理では、米国が昨年十二月に提起したソマリアへの国連PKOの派遣問題の検討が進んでいる。その主力部隊および指揮は、もちろんAFRICOMが担うことになる。AFRICOMの主要な任務は、アフリカの「戦争予防」と「平和維持」活動ということになっている。そしてその軍事拠点になるのが、二〇〇二年にジプチにつくられた米軍基地である。

 ソマリアPKOへの陸自の参加。この問題が、日本のマスコミで取り沙汰されるのも、そう遠い先のことではないだろう。

2009年3月28日土曜日

誰のための「平和と和解」か?---対テロ戦争時代の国連安保理と「国際社会」の役割を再考する

誰のための「平和と和解」か?
---対テロ戦争時代の国連安保理と「国際社会」の役割を再考する


 ソマリアの内戦勃発からほぼ二十年、旧ソ連のアフガニスタンへの軍事介入から三十年、また「自衛権」を発動した米国のアフガニスタンへの空爆の開始から七年半を迎え、誰の目にも明らかになったことがひとつだけある。それは、「イスラム原理主義」は欧米、ロシア、中国の軍事力をもってしても消え去らない、ということだ。
 アルカーイダのみならず、アフガニスタンのタリバーンもソマリアのアルシャバーブも、ハマスにファタハにヒズボラ、その他フィリピンをはじめ世界各地のイスラム武装勢力も、米軍やNATO軍によって軍事的に殲滅することはできなかったし、これからもできないだろう。なぜなら、彼、彼女たちは米軍や外国の軍隊が自国の領土に駐留する限り、武装闘争を放棄しないと宣言しているからである。

 問題は、国連安保理においても日本においても、この現実をいまだに教訓化しきれていないことである。つまり、ブッシュ政権の対テロ戦争に全世界が振り回され、世界全体がブッシュ政権登場以前より惨憺たる状況になっていることを総括しきれないまま、ぼくらはいまポスト・ブッシュの「国際政治」になし崩し的に雪崩れ込んでしまっているのである。

 ぼくらのような「非イスラム原理主義」の世界は、「原理主義」を外部から軍事的に解体することは不可能であることを知ってしまった。にもかかわらず、現実的には「原理主義」=「過激派」=「テロリスト」というレッテル貼りではない、彼や彼女たちとの関係を作り直すための政治的言説をいまだ見出しきれていないのである。その結果、ぼくらはイスラム武装勢力をターゲットにした、けれども実際には絶大なる一般市民の犠牲を生み出してきた米国、イスラエル、中国、ロシア等々の対テロ戦争を国際的に容認、あるいは黙認してしまっているのである。

 米軍とNATO軍、そして「紛争」をかかえる各国の軍隊と武装勢力の戦闘の激化、追い詰められた武装勢力による「自爆テロ」の炸裂、一般市民の犠牲、国家と武装勢力双方の戦争犯罪の氾濫、そしてそれに対する国際的な黙殺や沈黙・・・。ここ数年、アフガニスタンやソマリアで起こってきたことは「テロ対策」の絶対戦争化という根本的な政策的誤りが正されない限り、これからも半永久的に続くことになる。そのことを十分に知りながら、ぼくらは惰性的に同じ誤りをくり返そうとしている。

 人によって程度の違いはあるかもしれないが、米国の大統領がブッシュからオバマに変わったことによって、もしかしたら対テロ戦争は終息する兆しをみせるかもしれない、という仄かな期待を感じた人は多いだろう。ぼく自身が、「もしかしたら」と思った人間の一人である。しかし、大統領選におけるオバマの勝利以降、米国から発せられてくる情報を読むにしたがい、「もしかしたら」は「やっぱりダメか」にあっけなく変わってしまった。

 たしかに、バラク・オバマその人は、ブッシュ政権八年の「単独行動主義」とネオコン的「軍事至上主義」からの転換をはかろうとしていたのだろう。「対テロ戦争」という言葉を嫌い、日本語でいえば米軍の「海外派遣」とでも訳せるような表現を使おうとし、何とかイスラム社会に対する米国と米軍のイメージアップをはかろうと腐心している。しかし、政権として打ち出されてくる内容は、早くもオバマ自身の公約を裏切っている。
 ブッシュが始めた「終わりなき戦争」としての対テロ戦争がオバマ政権の時代に終息する気配は、いまのところ何も確認できない。それを証明するのが、ブッシュの対テロ戦争からの転換をはかるとされた、しかし実態は「軍事だけでなく、民生もやる」と言っているに過ぎない、オバマ政権のアフガニスタンに対する「包括的新戦略」である。

 オバマ政権は、アフガニスタンとパキスタンにおいてこの間勢力を飛躍的に増大させているタリバーンの「穏健派」と「過激派」を分断し、「穏健派」の政治的取り込みをはかり、「過激派」を炙り出そうとしている。しかし、そうした米国の「包括的」で新たな軍事的・政治的介入を拒否する勢力に対しては、断固として戦争継続(use of force)を宣言しているのだ。それはいわば、軍事的・政治的破産が明らかになったブッシュの対テロ戦争を、軍事・開発・「民生」部門全体にわたる膨大な額のドルのバラ撒きを通じ、オバマ流に少しだけ「リベラル化」した対テロ戦争に過ぎないのである

 アフガニスタンでもソマリアでも、タリバーンやアルシャバーブに反対する人々さえ、米軍や外国軍の撤退を要求している。ぼくらはこのことを、もう少し真剣に考えてみる必要がある。そうすれば、人々の広範な支持を集めているとは決していえない両国の現政府を全面的に支援する形で行われている米国や「国際社会」の介入策の誤りが、より鮮明にみえてくると思うのである。

 「紛争当事国」のどの「紛争当事者」の立場にも立たず、まずは当事者間の停戦交渉を積み重ね、和平合意を実現する。そのための「調停」あるいは「仲介者」として、あくまでも第三者的に関与する。これが国連であれ、アフリカ連合などの地域機関であれ、「国際社会」の「紛争」地域に対する関与のあり方の大原則である。十年、二十年かかったとしても、粘り強く関わり続けるしかない。その過程で力の均衡が破れ、いずれかの勢力が伸張したとしても、外部からの軍事介入は事態を悪化させるだけだからである。

 ところが、対テロ戦争時代においては、この大原則が通らない。「テロとの戦い」は「国連的正義」となり、「テロ対策」を戦争化する米国の世界戦略と、一方においてEUと日本は利害が一致し、引きずられ、他方ににおいてロシアや中国は、自国に深刻な「民族問題」と「イスラム原理主義」武装勢力をかかえるがゆえに「連携」する。
 こうして国連(安保理)に代表される「国際社会」が、第三者的関与という大原則をかなぐり捨て、予め現政権・政府を支援する(あるいは転覆する)という明確な政治目的を持ち、「紛争」地域に干渉・介入するというパターンが確立してきたのである。

 ブッシュ政権の唯一の遺産とは、この外部からの軍事的介入が問題解決はおろか、問題をさらに複雑にし、悪化させることを、世界に知らしめたことである。にもかかわらず、ぼくらはいまだにブッシュの負の遺産を償却する道筋を見出せないまま、同じ過ちに向かって突き進んでいるのである。

 「テロルな平和」とは、そのようにしてかろうじて「維持」されたり「強制」されたりする「国際の平和と安定」のことである。つまりは、国家と非国家主体双方によってくり返される戦争犯罪、虐殺と隣り合わせの、そんな対テロ戦争時代の「平和」のことである。

2009年3月27日金曜日

「海賊対策」と対テロ戦争---(3)国連安保理決議と米国のソマリア介入No.3

「海賊対策」と対テロ戦争

(3)国連安保理決議と米国のソマリア介入


3 ソマリアにおける国連PKOの行方

 二〇〇六年十二月から翌〇七年一月の米軍、エチオピア軍、暫定連邦政府軍と当時のイスラム法廷連合との戦闘による「ソマリアの虐殺」を経て、二〇〇七年一月十九日、アフリカ連合の「平和安全保障理事会」は、ソマリアへのPKO(平和維持部隊)、AMISOMの派遣を決定した。

 AMISOMの任務は、主に三点。
①暫定連邦政府への支援、
②政府軍および警察の育成・訓練、
③「人道援助」物資の輸送の安全確保などである。
 国連安保理が翌二月にAMISOMの派遣を承認し、当初六ヶ月の派遣期限が更新され続け、現在にいたっている。

 ぼくらは、アフリカの「紛争」にアフリカ連合の軍隊が派遣されるのだから何も問題はないではないか、と思ってしまう。イラクやアフガニスタンのように米軍やNATO軍が派兵されるよりはマシではないかと。しかし、事はそう単純ではない。
 第一に、ソマリアにおける戦争犯罪の当事国のひとつであるエピオピアがアフリカ連合の「平和安全保障」理事会の理事国であり、AMISOM派遣決定に直接的に関与していること、しかもエピオピア軍は二〇〇九年一月の撤退まで、その後丸二年間、ソマリアに駐留し続けていたこと(実は完全撤退していないという情報もある)、
 第二に、AMISOM派遣決定に伴い、それまで国連安保理決議としてソマリアへの武器禁輸が決定されていたにもかかわらず、米国によるAMISOM(派遣国)に対する武器供与は「例外的措置」とされたこと、が指摘できる。

 つまり、形の上では米国はアフリカ連合のソマリアPKOに直接的関与はしていないということになっているが、エチオピアとAMISOM(派遣国)、そして暫定連邦政府に対する軍事援助・訓練という形で、事実上ソマリアへの軍事介入を継続してきたのである。

 AMISOMについていえば、これまで当初予定していた八〇〇〇人規模の部隊派遣がその半数にも満たないこと、装備と資金不足、さらにはPKOという性格上、武器使用=武力行使に制約があることなど、さまざまな問題点(苦情)が指摘されてきた。こうした中で、今年の六月までの期限を前に、この三月から部隊の増派が決定され、すでにモガディシュには増派部隊が到着したという現地の情報もある。

 そこで、国連安保理の動きが気になるわけだけれども、安保理は去年の十二月、まさに「海賊」対処をめぐり発した去年最後の安保理決議と機を一にして、AMISOMと交代に国連PKOを今年の夏から派遣することを「検討」するという決定を下している。それに米軍がどのように関与するか、いまのところ定かではない。
 しかし、「国際ソマリア連絡調整グループ」を母体とした「海賊対策国際連絡調整グループ」も結成された。米軍、仏軍、英軍など、要するに米軍とNATO軍を中心にした「海賊・武装強盗」撲滅有志連合軍は、すでに組織化されている。そしてそれに日本も参加し、金も出すとすでに確約している。これらのことを総合的に考え合わせると、一九九〇年代初頭のソマリア介入とその失敗という国連にとっての「ソマリアの悪夢」を総括せずに、いま再び二度目の悪夢の再現に向け、国連がソマリアPKOを新たに創設することは十分に想定しうることである。

 その時、日本、そして自衛隊はどうするか?
 日本は昨年から、アフリカにおける国連PKOに積極的に関与し始めている。

 昨年十一月、「アフリカ紛争解決平和維持訓練カイロ地域センター(CCCPA)」に日本は自衛官二名を講師として派遣している。また、同じく十一月、国連スーダン・ミッション(UNMIS)に派遣された自衛官二名は「軍事部門司令部兵站幕僚」と「統合任務分析センター情報幕僚」の任務を開始している。

 「海賊」が「人類共通の敵」であるなら、暫定連邦政府と戦うアルシャバーブやその他のソマリアの「イスラム原理主義者」はさしずめ「宇宙の敵」ということになるのかもしれないが、これから組織されるかもしれない国連ソマリアPKOへの自衛隊の参加は、少なくともその態勢だけは、すでに整っている。国際政治と国内政治の両方の舞台裏で何もかもがすべて「お膳立て済み」と穿った見方をするのは、ぼくだけだろうか?

 もしかしたら今秋、あるいは冬あたり、自衛隊から「軍事部門司令部兵站幕僚」と「統合任務分析センター情報幕僚」が「先遣隊」としてソマリアに「派遣」されることが決定されるかもしれない。「武器使用」基準を「国際標準」にして。
 ぼくらはその時になっても、今と同じ議論を性懲りもなく、また延々とくり返しているかもしれない。

4 「海賊対処」海域と対テロ補給海域


 三月十八日、防衛省の統合幕僚監部のホームページに「ソマリア沖・アデン湾における海賊対処のための活動特設ページ」が開設された。上の地図はそこに掲載されているものである。これを同ホームページにある「インド洋における補給支援活動特設ページ」にある下の地図と対照してみよう。産経新聞の記事に使われていた地図は下の地図を元にしたものだが、防衛省が作成したこの二つを対照すれば「海賊対処」と「補給支援」活動の位置関係がより正確に理解できるだろう。

 多くの人が「インド洋」のみで行われているものと思っていたに違いない「補給支援」活動はペルシャ湾のみならず、アデン湾でも展開されている。そして海上自衛隊の「海賊対処」海域はその海域の中にスッポリ収まってしまうのである。
 「海賊対処」と「補給支援」。もしかしたら、これから海上自衛隊はこの両方を使い分けながら、無期限にインド洋、ペルシャ湾、アデン湾で展開することになるかもしれない。「ねじれ国会」によって「補給支援」に関する与野党一致がはかれなくなった中で、「海賊新法」の本当の狙いはそこにあるのかもしれない。

「海賊対策」と対テロ戦争---(3)国連安保理決議と米国のソマリア介入No.2

「海賊対策」と対テロ戦争

(3)国連安保理決議と米国のソマリア介入


2 内戦の泥沼化と「ソマリア・コンタクト・グループ」の結成

 ブッシュ政権八年の米国のアフリカ戦略は、対テロ戦争と開発戦略を通じた経済統合を両輪にしてきた。一方において、親米政権の形成と反米イスラム武装勢力の軍事的解体、他方において石油、天然ガス、鉱物資源、海底資源などの開発権益の保全と新たな開拓。そのために有償・無償の軍事援助、政府開発援助(ODA)、「人道援助」が使い分けられてきたのである。

 二〇〇二年のソマリアの隣国ジプチ共和国での基地建設と、ソマリア国内におけるCIAの政治工作に始まったブッシュ政権のソマリアへの軍事的・政治的介入は、アフリカ大陸の中でもこうした傾向が最も顕著に現れていた。その意味で、グローバル対テロ戦争の中に位置づけられたブッシュ政権のソマリア政策は、恐ろしくはあるが、逆に非常に分かりやすいものであったということができる。

 記憶を呼び戻すために、二年前の二〇〇七年一月の下の記事と、参考資料に目を通してほしい。

・・・・・・・
 ソマリア沖に米軍展開 イスラム勢力の逃亡阻止
 【共同通信】2007/01/03

 マコーマック米国務省報道官は3日の記者会見で、ソマリアの首都モガディシオから撤退したイスラム原理主義勢力「イスラム法廷会議」(イスラム法廷連合のこと。引用者)メンバーの国外逃亡を阻止するため、米軍がソマリア沖に展開していることを明らかにした。
 また暫定政府部隊とエチオピア軍がモガディシオを制圧したことを受け、今後の対応を関係国間で協議するため「ソマリア連絡調整グループ」(Somalia Contact Groupのこと。引用者)の会合を5日にケニアで開く予定だと述べた。米国の呼び掛けによるもので、フレーザー国務次官補(アフリカ担当)が共同議長を務める。
 報道官は、イスラム法廷会議のメンバーがアルカイダを含む国際テロ組織と関係を持っていると指摘。国外逃亡は「われわれの大きな懸念」と強調し、米軍展開は「海上の逃げ道をなくすため」と説明した。

◎参考資料⇒「ソマリアで生じている事態および米国のソマリア軍事介入に関する日本NGOの声明」(2007年2月2日)
・・・・・・・

 ブッシュ政権の全面的なソマリア軍事介入を決定付けたのは、前年の二〇〇六年の上半期にイスラム法廷連合が全土を支配下に置く気配をみせ、ついに六月、首都モガディシュを制圧したことだった。これを機に、米国は二〇〇四年にケニアのナイロビに亡命政府として樹立された暫定連邦政府およびこれへの軍事的支援を行っていたエチオピア政府を、さらにその背後から、しかし公然と支援するようになる。

ソマリア内戦の経緯については、AFPの「ソマリア紛争年表」、その他の資料を参照してほしい。

 こうした米国のソマリア介入を国際的に事前承認し、バックアップする非公式機関として、二〇〇六年六月に米国自身のイニシアティブによってニューヨークで組織されたのが、「ソマリア・コンタクト・グループ」(国際ソマリア連絡調整グループ。ICGS)である。ICGSのオリジナルメンバーは米国、英国、イタリア、EU代表部と委員会、スウェーデン、そしてタンザニア。国連とアフリカ連合はアラブ連盟、ソマリア開発政府間協議(Intergovernmental Authority on Development )とともに「オブザーバー」としてこれに参加した。

 以降、米国がヘゲモニーをとる形で国連(安保理)を巻き込みながら、暫定連邦政府を軍事的・政治的に支え、「イスラム原理主義過激派」をソマリアから放逐する、いわゆる「ソマリアの平和と和解」(ICGSのスローガン)に向けた「国際社会」の介入が本格化する。二〇〇六年十二月のエチオピアのソマリア侵略、そして年明けの米軍の空爆・ミサイル攻撃は、こうした米国版「ソマリアの平和と和解」戦略の本質を、最も露骨な形で全世界に示したのである。その結果もたらされたものが、上に紹介した日本の国際協力NGOの声明の内容である。

2009年3月24日火曜日

「海賊対策」と対テロ戦争---(3)国連安保理決議と米国のソマリア介入No.1

「海賊対策」と対テロ戦争

(3)国連安保理決議と米国のソマリア介入


 (2)「「海賊対策」は「海賊」対策にあらず」で確認したことは、ソマリア沖・アデン湾への海上自衛隊の「派遣」が、いわば民主党と自公政権の「大連立」状況によって決定されたことである。現在、民主党は社民党との政策協議との関係で、「海賊新法」を「修正」する動きを見せているが、党として自衛隊「派遣」を容認する方針に変わりはない。

 「国連安保理決議があれば、たとえ憲法九条第二項があろうと自衛隊の海外派兵も武力行使もできる」。
 これが小沢民主党の「安全保障」政策の基本方針である。この論理は憲法に対する国際法の「優越性」を認めるものだが、長島議員も麻生政権の海上自衛隊派兵の決断を誘導するような国会質疑の中で強調していたことである。

〇長島
 総理、もう時間がないので、総理の御決意を伺いたいんです。国連決議もある。国連決議がありますと私ども民主党では大体大丈夫なんです。国連決議もある、それからヨーロッパ諸国も本気で取り組んでいる。いつまでもただ乗りのそしりを受けるわけにはいきませんね・・・
〇麻生
 この種の話はぜひ与野党間で政党間協議をということをずっと申し上げてきておりましたので、こういった御提案をいただけるというのは私は物すごくいいことだと正直思っております」。(二〇〇八年十月十七日の衆議院「対テロ委員会」における発言)

 では、長島議員が錦の御旗にしているソマリア情勢に関する国連安保理決議とはどのようなものだったのか。
 二〇〇八年、国連安保理はソマリア情勢をめぐり、
①アフリカ連合によるソマリアPKO(AMISOM)の期限延長、
②ソマリアへの武器禁輸、
③「海賊および武装強盗」への対処、これら三つの議案に関連し、総計十本の決議を発している。
 その内、「海賊および武装強盗」に関するものは四つある。最初が決議一八一六、次に一八三八一八四六、そして最後が一八五一である。
 (因みに、日本政府(外務省、防衛省、内閣府、首相官邸)は、それぞれの「海賊」問題に関するホームページにおいて、これらの決議のいずれも日本語訳はおろか原文も公開していない。たとえば、外務省についていえば、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対する安保理決議では原文・日本語訳(仮訳)の両方を公開しているのに比し、その怠慢ぶりが際立っている。なお、上にリンクを張った各決議の翻訳には一部誤記・脱字等もみられるが、これらは民間ボランティア組織による訳であることを断っておきたい。)

 最初の決議一八一六の共同提案国は米国、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、パナマ、クロアチアの安保理理事国七カ国と、日本、スペイン、オーストラリア、カナダ、デンマーク、オランダ、ギリシャ、ノルウェー、韓国の非理事国の計十六カ国、最後の決議一八五一はパナマが抜け、新たにポルトガル、ウクライナ、シンガポール、マレーシアが加わった計十九カ国である。

 共同提案国の順番を米国、フランス・・・としているのには理由がある。米国とフランスは、ともにアフリカに対する直接軍事介入の事例にこと欠かない国であるが、そもそもこの決議一八一六を起草したのが米国であり、その米国とともに草案を完成させ、安保理での決議に向け政治工作に走ったのがフランスだったからである。

1 「海賊」対策か、それとも対テロ・海賊戦争か
---ソマリアの和平を脅かす「海賊」対策の軍事化


 「海賊対策」がソマリアの内戦への回帰と外部からの軍事介入ではなく、本当の意味で和平につながると理解できるのであれば、何も問題はない。けれども、国連安保理決議の内容を見る限り、おそらく誰もそうは思えなくなるだろう。
 去年の六月に出された安保理決議一八一六。この決議の中に見落とせない項目がある。それは決定事項の七点目である。

・・・・・・・・
 本決議採択日より6か月の期間、同国沖における海賊及び武装強盗と戦うにあたり暫定連邦政府と協力す る国家は暫定連邦政府により事務総長に対し事前に報告の上、以下のことを行ってもよいことを決定する。

a)関連する国際法の下で海賊行為に対して公海上で実施できる行動に従い、海上における海賊行為及び武装強盗制圧の目的で同国領海内に入ること

b)関連する国際法の下で海賊行為に対して公海上で実施できる行動に従い、同国領海内で海賊行為及び武装強盗を制圧するためのあらゆる必要な措置を講じること
・・・・・・・・

 この七点目の内容は、いみじくも民主党長島議員が現行法体系の下で海上自衛隊を出せると主張した、その根拠として挙げていた箇所である。しかも見落とせないのは、安保理決議が、決議一八一六から十二月の一八五一に至る過程で、有志連合軍の軍事的権限をさらに拡大していることだ。
 決議一八五一の決定事項の第六点目に注目しよう。そこでは、それまでのソマリアの領海内における有志連合軍の展開に加え、新たに「海上における海賊行為及び武装強盗を制圧するために、同国内であらゆる必要な措置を行うことができることを決定する」とされている。

 形式的にいえば、有志連合軍の行動は「暫定連邦政府の「要請」を受けて」ということになっているが(この点については後述する)、これで有志連合軍(=米軍)はソマリアの領海内のみならず領土全域において「海賊および武装強盗」の追撃・撲滅のために「あらゆる必要な措置」をとることが可能になったわけである。

 日本はこれら一連の安保理決議の共同提案国になっており、麻生政権はもちろんのこと、民主党をはじめ日本の議会政党やマスコミから「海賊対策」の軍事化を招く安保理決議に対する批判がひとつとしてきこえてこないのは異様である。それは、「海賊」を「テロリスト」と同一視し、「人類共通の敵」と定義し、必要とあらばその軍事的殲滅をはかるという、ブッシュ政権が生み出したグローバル対テロ戦争時代の政治的言説に日本の政党政治やジャーナリズムが、いまでも深く囚われていることの証である。

 ともすれば忘れがちになるが、ソマリアは未だ内戦状態にある。その中で、暫定連邦政府側に軍事援助し、政治的なテコ入れを続けてきた米国をはじめとした各国の軍隊が、ソマリアの国内まで「海賊・武装強盗」を追撃することを国連の名において許しているということ自体、きわめて異常だといわなければならない。
 本来、警察活動であるべき「海賊対策」が、戦艦を派遣する側の軍隊の論理によって戦争化し、ソマリア和平の阻害要因になりうる根拠がここにある。安保理決議はその前文において、ソマリアの「主権・領土保全・政治的独立・統一の尊重を再確認」すると語りながら、一般のソマリアの人々の視点に立てば、これらを蹂躙するものにしか映らない。

 もっとも、暫定連邦政府がソマリアの人々の広範な支持を得て、真にソマリアの人々の民意を代表しているといえるなら、問題は半減する。しかし、事実はそうではない。今年に入り、ブッシュ政権とエチオピア政府がアルカーイダとのつながりがあるとし、「ソマリアのタリバーン」「テロ組織」として軍事的殲滅の対象としてきた反政府武装勢力のアルシャバーブは、再びソマリア南部を中心に勢力を伸張させている。つまり、暫定連邦政府の支持基盤は決して磐石なものとはいえないのだ。しかも、政府軍自体がイスラム法廷連合内「穏健派」とその他の軍閥の連合体以上の呈をなしておらず、政府軍による民衆略奪や虐殺などがくり返し起こっている結果、民衆の怒りや不信は政府軍そのものに対しても向けられている状況なのである。

 ともあれ、ぼくらはできる限り、内戦の当事者の一方の側に肩入れし、状況を悪化させる事態を招きかねない国連安保理決議から距離を置きながら、次にブッシュ政権末期の米国が、なぜこれらの内容を決議に盛り込む必要があったのか、そしてその政治的目的がどこにあったのかを考えてみたい。そのためには、安保理決議を、ソマリア内戦に対する米国と国連の関与の歴史的文脈の中に置き直し、より広い視野に立って捉え返す必要がある。

2009年3月22日日曜日

「海賊対策」と対テロ戦争---(2)「海賊対策」は「海賊」対策にあらず


「海賊対策」と対テロ戦争

(2)「海賊対策」は「海賊」対策にあらず

(右の一覧は読売新聞の「「海賊襲撃」に緊迫、漁船との判別難しく…ソマリア沖ルポ」より)

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海賊対策でイエメン漁民が悲鳴=海軍から威嚇射撃も-サウジ紙
【カイロ22日時事】

海賊対策で海上自衛隊も含めた各国海軍が派遣されているソマリア沖のアデン湾で、イエメン漁民が海賊と疑われて威嚇射撃を受けるなど海軍と海賊の板挟みとなり、「漁業が立ち行かない」と悲鳴を上げている。21日付のサウジアラビア紙アラブ・ニューズが伝えた。
 同紙によると、イエメンのハドラマウト州沿岸では約1万2000人が漁業に従事、主要な漁場は同国とソマリア中間海域で、海賊被害海域とも重なる。両国の漁師が乗り組むことが多く、海賊と誤認されて威嚇射撃を受け負傷者も出ているという。
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 「海賊新法」をめぐる国会審議が始まった三月十九日、いきなり自衛隊OBの国会議員から「海賊対策はテロ対策でもある」という議論が飛び出した。そして、従来の政府解釈を変更し、自衛隊の武器使用を「国際標準」化し、海外派兵一般法を制定すべし、という持論をブチまいたのである。

 しかし、その自衛隊が三月三十日から「警備行動」を開始するというアデン湾では、すでに周辺諸国の一般漁民が射撃されるという事態が起こっている。また、ソマリアからアデン湾をイエメンに向かっていた難民が銃撃されたという事件も報道されている。
 今年に入り「海賊」発生件数が顕著に低下し、しかも米軍やNATO軍その他諸国の戦艦、国連の報告書がいうところの「現代史で最大規模の海賊対策の艦船」の到着によって、すでにアデン湾が「警備」過密状態にあり、「警備」する側が問題を起こしているというのに海上自衛隊はいったい具体的に何をしにいくのか。とにもかくにも「何でもいいから理由をみつけて海自を出す」とでもいうような、出すこと自体を自己目的化した「派遣」だったのではないかと思えてくる。

 海上自衛隊はその任務期間中に何件の「海賊事案」に遭遇し、その阻止活動に成功するだろう。その総件数とそのために使われた納税者の血税との関係、要するに自衛隊「派遣」の「費用対効果」について、ぼくらは厳しくチェックし、査定する必要があるだろう。対テロ戦争の「後方支援」=補給活動のように「国際的に評価されている」といった、いい加減な表現でもう済まされてはならないと思うのである。

 こうした議論、つまり「海賊対策の軍事化」が現地の漁民や難民にもたらしている重大な人権侵害(その補償はいったい誰がするのか、殺された難民の遺族は誰を訴えることができるのか?)、そして自衛隊「派遣」の経済合理性如何の問題が何も議論されず、またマスコミも問わぬまま、これまで自衛隊を出すことを前提にすべての話が進んできたのである。

 海外のニュース報道では、押しなべて日本は「海軍を派兵した」となっているが、ここで海上自衛隊の「派遣」が本当に妥当な政策選択であったかどうか、改めて問題を整理するために、麻生政権がソマリア沖への海上自衛隊「派遣」を決定するに至った経緯を改めて振り返っておこう。

 麻生首相が、国連の「海賊」問題に関する安保理決議を受け、海上保安庁ではなく「海軍」の派兵を決定したのは、昨年十二月二十五日である。元々、麻生政権には海上保安庁を出すという選択肢などなく、「はじめに自衛隊ありき」の決定だった。
 この決定の呼び水になったのは、昨年十月十七日の衆議院の「国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会」における民主党長島議員と浜田防衛大臣による次の質疑・応答、そしてそれを受けた麻生首相の発言である。

・・・・・・・・・
〇長島
 二つの国連決議が出ました。六月二日と十月七日、国連決議一八一六そして一八三八。先ほど話が出ましたね、一八一六は、多国籍艦隊に対して、海賊制圧のため、ソマリア領海への進入と領海内での海賊行為を制圧するための必要なあらゆる手段を認める、こういう決議であります。これが六月二日に出た決議一八一六であります。
 そして十月七日、決議一八三八、この決議は、大要は三つに分かれますけれども、海賊の襲撃がその間、より洗練されてきた、このことを強調している。そして、各国ともより積極的な関与をしてほしい、こういう呼びかけをしております。そして、期限を特定せず、かつ、公海上での活動をあわせて強く要求する、こういう形になっております・・・。
 浜田防衛大臣にお伺いしたいんですけれども、これら一連の国連決議を受けて、あるいはEUやNATO諸国の具体的な行動を受けて、先ほど海上警備行動の話もありましたけれども、我が国として何か具体的な行動に移す、そういう準備、可能性は考えておられますか。

〇浜田
 我々とすれば、現在、ソマリア沖の海域における海賊対策の部隊を派遣する等は検討はしておりませんが、しかしながら、我々は、総合海洋政策本部という関係閣僚から成る法制チームを設置しまして、海賊に対する取り締まりのための法制度上の枠組みについて検討を進めているところでありまして、この法制チームの検討結果を受けてまた考えていきたいというふうに思っているところでございます。

〇長島
 今、取り締まりというお話をされました。取り締まりというのは司法警察の権限に入り込んでいくものですから、法制的にはなかなかこれは難しいんですよ。新しい法律が必要なんです。しかし、やれることはまだあるはずなんですね。
 私は、去年のまさにこの委員会での質疑の中で、何で補給活動なんだ、なぜ日本は海上阻止活動の正面に立てないんだ、やれることがあるんじゃないかと。例えば警戒監視です。海上自衛隊には、P3Cという哨戒機が八十機以上もあるんですね。ある軍事専門家に言わせると、余っている。こういうアセットをこの地域に持っていけばかなり有用じゃないんでしょうか。例えばドイツは、もう既にジブチにある米軍の基地を拠点にP3Cの哨戒機の運用を始めました。浜田防衛大臣、まさに我が国の生命線を握るこの海域が海賊の脅威にさらされている、そういう事態にあって、国防の責任者として、少なくともこういった活動は現行法のもとで私は十分できると思んですが、いかがでしょうか。

〇浜田
 我々とすれば、あらゆる可能性を考えながら今まで対応してきたところもあるわけで、当然その警戒監視というものに対してもいろいろな形で検討の材料にはしてまいりましたけれども、今の現状からいえば、大変おしかりを受けるかもしれませんが、目の前にある法律をしっかりとやって、そしてインド洋の活動というものをやらせていただいて、その後にまたそういったことも可能性を考えていきたい。お考えはよくわかりますけれども、そういう状況であります。

〇麻生
・・・今、民主党の方もこの種のことに御理解があるということに関しましては我々としては大変心強ところでもありまして、ぜひこの問題につきましてきちんとした、日本の国益に沿っておる話でもあろうと思っております。
・・・・・・・

 こうして麻生政権に先立つ福田政権においては、自衛隊の派兵はおろか海上保安庁の派遣さえ検討されていなかった「海賊対策」が、麻生政権に変わるや否や、長島副幹事長を始めとする民主党内部の「日米同盟強化」派の「大変心強い」援軍を得て、一挙に海上自衛隊の派兵へと動いたのである。長島議員の質疑を報じた民主党ニュースにもあるように、福田政権を引き継いだ当時の麻生政権の「海賊対策」といえば、「間接的な協力貢献」としての「燃料の無償提供」と、「中長期的課題」としての「沿岸国の能力強化」しかなかった。それは福田政権が「自衛隊の武器使用」や「集団的自衛権の行使」をめぐる、それまでの政府見解と解釈に、それ以上の変更を加えないという方針を採っていたからである。

 麻生政権が本当に「国民生活第一主義」を唱えた福田政権の路線を後継する政権であるなら、「海賊対策」なるものに自衛隊を「派遣」する意思は持たなかったはずだ。せいぜいのところ、「燃料の無償提供」と「沿岸国の能力強化」で十分だったのである。このことは自民党と公明党の支持者もよく考えてみるべきではないか。福田路線は民主党内の「日米同盟」強化派と彼らと志を同じくする麻生太郎その人の連合によって覆され、放棄されたのである。この事実過程をしっかり認識しておきたい。

 長島議員の国会質疑から一ヶ月が経った十一月十八日。日本財団と海洋政策研究財団は「総合海洋政策本部長」たる麻生首相に⇒「ソマリア沖海賊行為への日本の対応に関する提言」を提出する。ぼくらはこの日、笑顔の麻生首相と同じく笑顔の長島議員が「同士」として仲良く同席している姿を確認することになる。

 「海賊新法」の本質を考えるときに忘れてならないのは、自衛隊の派兵が事実上、自公政権と民主党の合意の下で決まったのが、衆議院の「国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会」だったということだ。このことは実に象徴的である。

 ぼく自身は自公連立政権の「外交・安全保障」政策が、安保と米軍駐留を永続化するものであるという意味においてこれに反対であり、政権交代を強く期待している主権者の一人である。しかし、長島議員と麻生首相の掛け合い漫才のようなやりとりを読むにつけ、もしも仮に民主党を中心とする政権ができたとしても、米国のグローバル対テロ戦争から自立した日本の「外交・安全保障」政策は、とても望むべくもないと言わざるをえなくなる。
 なぜなら、長島議員が紹介している「海賊」対策をめぐる一連の国連安保理決議が、グローバル対テロ戦争の一環として、ソマリアにおけるイスラム武装勢力の撲滅と封じ込めを目的とし、米国ブッシュ政権の強力なイニシアティブの下に採択されたものであるからだ。

 その昔、米国の「西部開拓」の時代に、「良いインディアンは死んだインディアンだけだ」という表現が使われ、アメリカ先住民族に対するジェノサイドが正当化されたものだが、ペンタゴンの対テロ戦争は、「良いイスラム原理主義者は、死んだイスラム原理主義者だけだ」といわんばかりの「テロリスト」根絶作戦として展開されてきたのである。
 ブッシュ政権丸八年のその好戦的なレガシーからオバマ政権はいかに脱却しうるか。そうなることがぼくらにとっても希望ではあるのだが、なかなか事はそう簡単には運びそうにない。それは六年前のイラクが、いまアフガニスタンで再現されようとしている事態の中にもはっきりと示されている。

 ソマリア、イラク、アフガニスタンでこれから何が起こっていくか、そのことに目を配ることを常に忘れないようにしながら、次にソマリアや「アフリカの角」における米国の対テロ戦争と「海賊対策」国連安保理決議との関連についてみることにしよう。

2009年3月19日木曜日

「海賊対策」と対テロ戦争---(1)佐藤正久自民党議員の重大発言

「海賊対策」と対テロ戦争

(1)佐藤正久自民党議員の重大発言

(右の地図は産経新聞の「“ソマリア海賊掃討司令部”へ要員派遣 政府検討」より)

 3月19日午前中の参議院予算委員会における「外交・安全保障等に関する集中審議」。自民党の佐藤正久議員が質疑にたった。佐藤議員の質疑内容は、ソマリアの「海賊対策」についてこれからぼうが書こうとすることと密接に関係しているので、ここにその要旨をまとめておこうと思う。ポイントは次の五点である。

①ソマリア沖(アデン湾)への自衛隊派兵には「海賊の脅威だけでなく、テロの脅威」にも対応するものである。

②「海賊新法」での制限付の武器使用の緩和措置を、そのまま自衛隊のPKO活動における武器使用の緩和措置の前例としないこと。
 つまり、自衛隊のPKO参加にあたっては、自衛隊の「現場」における行動を縛るような武器使用の制限を廃止し、「任務遂行のための武器使用」を全面的に認めべきという主張である。
 これに対し宮崎内閣法制局長は「海賊対策」とPKOは前提が違うので、「PKOにおける警護任務における武器使用についての議論に直接結びつくものではない」と答弁した。さらにこの答弁に対し、佐藤議員は「前例としないという明確な答弁」と解釈し、「感謝」を示した。

③自衛隊を海外で「運用」する一般法の制定すること。
 これに関連し、現在、防衛省、外務省、内閣府、内閣官房にまたがっている自衛隊の海外展開に関する管轄官庁を防衛省に一本化すること。
④一般法の中に「海賊新法」を含め、自衛隊が「海上交通路を確保する任務」を統合すること。
⑤今回アデン湾に派兵された自衛隊員に「補給支援特別措置法」に基づいた、あるいはそれ以上の特別手当を支給すること。
 
 もっとも重要なことは、佐藤議員(自民党の一部)が、憲法論議や九条解釈をいっさい抜きにして、海外における自衛隊の「任務遂行目的」での武器使用=武力行使の承認、そしてそれに基づく海外派兵一般法の制定を主張していることである。自衛隊OBのロビーイストとしてならともかく、いやしくも国会議員の発言としては、はっきり言って無茶苦茶な議論である。

 しかし、他方で政府与党の「国際平和協力の一般法に関するプロジェクト・チーム」のメンバーでもあるこの佐藤議員の主張を踏まえるなら、「海賊新法」を憲法違反とし、武力行使に「つながる」から反対するといった議論が、論戦の戦術としてもいかに無力であるか、その根拠も理解しうると思うのである。

2009年3月17日火曜日

「海賊対策」における憲法解釈の権力学---海外派兵と海外派遣、武力行使と武器使用をめぐって(2)

「海賊対策」における憲法解釈の権力学---海外派兵と海外派遣、武力行使と武器使用をめぐって(2)

1 「海賊新法」が憲法違反にならない理由

 「海賊新法」(案)が憲法違反だと主張したとしても、政府がそう解釈していない以上、議論は平行線をたどるだけである。ぼくらは「戦後」の長い間、安保条約や自衛隊をめぐり、あるいは日米安保ガイドライン、周辺事態法、武力攻撃事態法をめぐり、さらには国際平和協力法、イラク特措法、対テロ特措法などをめぐって、そんな虚しい議論を幾度となく、くり返してきた。
 けれども、政府が新しい口実をみつけては安保を強化し、自衛隊を海外に出そうとするたびに「憲法違反だ、いやそうではない」といった議論から、もういい加減、卒業すべきだとぼくは考えている。

 もちろん、改憲がなされていない以上、個々の政策が違憲行為であると判断できる場合に、違憲訴訟その他の活動を通じ、政府に政策の中止や変更を求めることは主権者としての当然の権利である。がしかし、そうした訴訟や活動なるものは、実際には「憲法九条を守る」ものではなく、自公政権による個別的な「外交・安全保障」政策を問う活動になる。だから、護憲派の人々をも含めぼくらにとっていま重要なことは、憲法九条が政府の政策規範として死文化している現実をはっきりさせることであり、「海賊新法」を憲法違反と主張することよりもむしろ「政府解釈によれば、なぜこれが憲法違反にならないか」を学習することではないかと思うのだる。

 なぜ、「海賊新法」が憲法違反にならないのか?
 日本政府が、憲法九条の規範原理を換骨奪胎する、憲法学説的にもきわめて異端的な九条解釈を政府解釈とし、しかもそれを上に列挙したような個別法の制定によって合法化し、「合憲」化してきたからである。
 憲法九条の死文化については、すでに述べているので、ここでは日本政府(内閣法制局)が編み出し公明党も踏襲している、
①自衛隊の海外派兵を「海外派遣」と言い換え、同時に
②武力行使を「武器使用」と言い換える、世界にも例をみない、ほとんど「天才的」ともいえる稀代の「霞ヶ関文学」の詭弁法について学習を深めることにしたい。

 学習の目的は「海賊新法」と、自衛隊の「武器使用」制限の「緩和」措置を通じ、改憲以前の段階において海外における自衛隊の武力行使を可能にすることを目論む「国際平和協力一般法」との関係性を見定めることにある。
⇒「「オバマの戦争」と「新日米安保宣言」」に続く

2009年3月16日月曜日

「海賊対策」における憲法解釈の権力学---海外派兵と海外派遣、武力行使と武器使用をめぐって(1)

「海賊対策」における憲法解釈の権力学---海外派兵と海外派遣、武力行使と武器使用をめぐって

 三月十四日、海上自衛隊が「海賊対策」と称して、新たに制定された法律ではなく、自衛隊法82条を根拠に日本の領域外に「派遣」された。
 日経新聞の記事によると、麻生首相は訓示の中で、「(海賊は人類共通の敵。貿易に依存する日本にとって国家存立の生命線を脅かすものだ」と「海賊対策」の意義を強調したという。

 これに先立つ三月十二日。政府はソマリア周辺国が実施する「海賊対策」を政府開発援助(ODA)で支援する方針を決めている。この決定に伴い、四月以降、国際協力機構(JICA)がイエメンに調査団を派遣するという。ODAによる周辺諸国に対する「海賊対策」の「能力向上」に向けた取り組みはすでに始まっているが、日本の「安全保障」政策と一体化した、いわゆる「ODAの戦略的活用」論のさらなる具体化である。

 自衛隊法の拡大解釈による自衛隊の海外「派遣」という意味では、ちょうど十八年前にも同じようなことがあった。湾岸戦争(一九九一年)直後の海上自衛隊の掃海艇のペルシャ湾への「派遣」である。その時は、海上自衛隊の「機雷等の除去」の任務を規定した自衛隊法九九条を適用しての「派遣」だった。
 当時のことを振り返るために、『永遠の安保、テロルな平和」の「Ⅲ 鎖を解かれた安保体制---「軍事同盟」への軌跡」の「1湾岸戦争と自衛隊の海外「派遣」」から引用しておこう。

・・・・・・・・
 「憲法も自衛隊法も改定せず、時限立法も制定せずにペルシャ湾への自衛隊派兵をどうやって正当化したのか。最初に、掃海艇が日本の領海のみならず「公海」で機雷除去できるという新解釈を出す。次に、「公海」概念から地理的制限を解除する。これで完了である。安保であればその対象領域は「日本区域」や「極東」という制限があるが、その縛りを解くのである。

 「自衛隊法九九条に基づく海上自衛隊の機雷等の除去の権限につきましては公海にも及び得るが、具体的にどの範囲にまで及ぶかについては、そのときどきの状況等を勘案して判断されるべきであり、一概には言えない」(九一年三月一五日衆議院外務委員会における政府答弁)。

 自衛隊はペルシャ湾であろうがどこであろうが、「そのときどきの状況等を勘案」すれば地球の裏側にまで「派遣」できるという画期的な新解釈が飛び出した。日本は、一九九一年段階において、自衛隊法の新たな「解釈」と内閣(外務・防衛官僚)の意志次第でそれができる国になっていたのである。

 ただし、法の解釈を変えるだけでは政治的には不十分である。日本の戦争「協力」に対する「国民の理解」を得るために「本土防衛」を超えた自衛隊の海外派兵を正当化する「大義」がなければならない。そこで出された論理が、「カネとモノだけでなくヒト=自衛隊を出すことがポスト冷戦時代の日本の国際的責任」という国際平和貢献論だったのである」(引用終わり)
・・・・・・・・

 十八年前は「国際平和貢献」論で、今回は「人類共通の敵」たる「海賊対処」論。
 思い起こすに、当時はまだ「五五年体制」の崩壊以前の時代だった。いかにも、時代は大きく変わってしまったようだ。その証拠に、掃海艇の「派遣」に「断固反対」を唱えていた「平和の公明党」は、政府与党となり自民党と一緒に「海賊新法」を国会で通す側に回るようになった。公明党は湾岸戦争以降、「そのときどきの状況等を勘案」し、こんなにも変わってしまった、ということだろうか。

 マスコミの対応の変化にも、時代の変化を痛感させられる。
 朝日新聞から「海賊新法」に反対する主張は何も聴こえてこないし、毎日新聞は今更ながらに、「自衛隊の海外活動全体になし崩し的に武器使用基準が緩和される事態は避けなければならない。そのための歯止めが必要である」などという社説でお茶を濁している。湾岸戦争以降、いや憲法九条が死文化した半世紀以上も前から「歯止め」など何もなかったし、かけられようもなかったにもかかわらずに、である。

 朝日新聞や毎日新聞は、過去の歴史と現在生起している事態を故意にみようとせず、「海賊対策」=「国益」論に押され、批判されること(=購読者の減少)を恐れて自らの主張を自主規制しているとしか思えない。
 なぜなら、これまで何度も繰りかえされてきた解釈改憲の手法を分析するなら、「海賊新法」が「武器使用の国際標準」に基づく自衛隊の海外派兵に向けた地ならしであること、つまりは「自衛隊の海外活動全体になし崩し的に武器使用基準を緩和」することを目的としたものであることは明らかだからである。

 次に待ち受けているのは、「復興支援」に名を借りた自衛隊のアフガニスタン「派遣」、また「平和維持」「人道的危機」を根拠とするスーダン、あるいはもしかしたらソマリアにおける国連PKOへの部隊としての派兵である。こんなことは、朝日新聞や毎日新聞の編集委員がもっともよく知るところだろう。
 日本の新聞ジャーナリズムは、「海賊対策」を突破口に常態化するであろう今後の自衛隊の海外派兵に対し、どのような立場で何を主張するかが、いま、問われているのである。

 「海賊新法」の分析に関しては、新聞ジャーナリズムとは違う意味ではあるが、日本共産党や社会民主党の主張も問題なしとしない。これから始まるであろう国会審議を見る目を養うためにも、次にそのことを検討しておきたいと思う。

1 「護憲主義」ではたたかえない---「海賊新法」の何に反対するか

 明文改憲がされておらず、政府解釈によって憲法九条の規範原理が限りなく相対化され、憲法九条が死文化している状況においては、法律を通すことによって政策の合法性と合憲性を担保しようとしても、政府のやることはそのすべてが憲法違反になる。しかしもちろん、このような主張を政府は受け入れない。憲法九条は改定されておらず、「憲法九条を守りながらやっている」と政府はいえるからだ。

 過去の「イラク特措法」や「対テロ特措法」の時と同じように、「海賊新法」に関する今後の国会論議においても、「憲法違反だ、いやそうではない」といった形式的(アリバイ的)な「論戦」がくり広げられ、「海賊新法」は遅くても四月中には国会を通過し、施行されることになるかもしれない。

 三月十六日現在、民主党が「小沢問題」で打撃を受け、「海賊新法」に対する党内の足並みが揃っておらず、しかも社民党や国民新党との議会内共闘にも暗雲が垂れ込めている状況においては、何か余程のことが無い限り、「海賊新法」が廃案に追い込まれることを想定するのは、とても困難である。蓋を開けてみると、日本共産党と社民党のみが儀礼的な反対票を投じ、それですべてが終わってしまう可能性も十分にありうるだろう。

 それでもぼくらは、憲法論と政策論、その両方の意味において「海賊新法」に反対する。
 ①憲法論的にいえば、ぼくらは「海賊新法」が憲法九条に「違反」しているから反対するのではない。「武力行使」や「武器使用」をめぐる解釈において、自衛隊の海外活動に関する現行の法体系は、とっくの昔に憲法違反になっている。

 ぼくらが反対するのは、自衛隊の外国軍に対する「後方支援」を超えた「前方展開」、つまりは多国籍軍への「協力」を超えた「参加」や外国軍の武力行使との一体化など、これまでの政府解釈によれば「改憲抜きにはできない」とされてきたことを麻生-自公連立政権が、、「海賊対策」という名の下に主権者にその信を問うことなく、権力を濫用し、勝手な解釈によってやろうとしているからである。
 自公連立政権・外務-防衛官僚機構による主権者の選択権を奪った、主権者蔑視の政治手法に反対しているのである。一言でいえば、やり方が汚いのだ。

 ②政策論的にいえば、ソマリア沖への自衛隊派兵は財政的には無駄の極み、非効率・非合理であり、外交・安全保障政策的には「ソマリア問題」の解決には何もつながらないばかりか、それに逆行する政治環境を、米国を中心とする国連安保理常任理事国と一緒になってつくろうとするものであることが指摘できる。

 日本政府はいうにおよばず、日本のマスメディアも、一月から二月にかけて、ソマリア国内では暫定政府とイスラム武装勢力との間で和平合意を結び、連邦統一政府ができるかできないかといった、きわめて重要かつ予断を許さない局面を迎えようとしていることを、何も報道しようとしない。「ソマリアは破綻国家」「無政府状態」という表現が、具体的な分析なしにくり返されるのみである。

 「海賊対策は絶対に必要」という共通認識の下で、「海賊新法」をめぐる議論は、自衛隊の果たす役割と憲法論議の中にのみ閉じ込めてきたのである。その意味では、ソマリアの事で自衛隊を「派遣」しようとしているのに、当のソマリアで具体的に何が起こっているかをまったく見ようとしない、ソマリアの人々から見れば、自国の都合しか考えない、きわめて手前勝手な「議論」をくり返してきたというしかない。

 はっきりしていることは、日本や米国などソマリア沖に艦隊を派遣した十カ国以上の国々で使われる軍事費の総額を充当するだけで、食糧危機・洪水・難民など、ソマリアの「人道的危機」を解決する費用は十分にまかなえる、ということだ。中央集権的ではない地方的自治を認めた連邦的なソマリアの統一政府が、イスラム武装勢力との和平を通して実現されるなら、そもそもソマリアの人々にとっては自国の国家主権を侵犯して行われている米国を中心とする有志連合艦隊の「海賊対処」を口実にした派遣など、ありえないことなのである。
 日本は、そしてぼくらはソマリアの和平のために何をすべきか、何ができるか。これこそがもっと議論されるべきテーマなのである。

 以上のことを押さえた上で、次に「海賊新法」がはらむ、憲法論と政策論両方にわたる問題点を具体的にみてみよう。
⇒「海賊対策」における憲法解釈の権力学---海外派兵と海外派遣、武力行使と武器使用をめぐってNo.2へ

2009年3月11日水曜日

ソマリアと「海賊」---新介入主義の破産

ソマリアと「海賊」---新介入主義の破産

 「海賊新法」が3月13日に閣議決定され、自衛隊法82条に基づく「海上警備行動」の発令後、海上自衛隊の護衛艦2隻が翌14日にソマリア沖へ向けて出航することが決まった。
 以下は、「海賊新法」(案)の概要が明らかにされて以降、この問題をめぐり書き綴ってきた記録である。(上の地図は十九世紀末期のヨーロッパ列強によって植民地されたアフリカ。Global Issuesより。)

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 政府与党の「海賊対策プロジェクトチーム(PT)」がまとめた「海賊対策新法案」の骨子が明らかになった(東京新聞の記事を参照)。ソマリアの「海賊」問題を、国内政治との関係で分かりやすく解説している文章として「海ゆかば~海上自衛隊「ソマリア沖海賊退治」派遣の裏表」(松尾信之)を紹介しておこう。
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海賊新法案 接近船への攻撃容認 
与党PT 任務遂行目的を追加

2009年2月26日 東京新聞(朝刊)

 政府は二十五日の与党海賊対策プロジェクトチーム(PT)で、海賊対策新法案の骨子を提示し、大筋で了承された。従来、海外での自衛隊活動では困難だった任務遂行のための武器使用を容認したことが柱。政府は三月四日のPTに最終案を示し、十日の国会提出を目指す。 
 骨子によると、海賊対策を警察活動と位置づけた上で、海上保安庁が対処できない場合、首相の承認を得て海上自衛隊が行動するとした。焦点の武器使用基準は、警察活動について定めた「警察官職務執行法」を準用しながら、別の規定も追加。これにより、自衛隊法に基づく海上警備行動で認められている(1)正当防衛(2)緊急避難-の場合に加え、任務遂行のための武器使用を可能にした。
 具体的には、海賊船の接近自体を海賊行為と定義し、海賊が攻撃を始める前に停船目的で船体射撃できる。一方、保護対象については、すべての国籍の船舶を対象にすることを規定。国会の関与については、海自が出動する場合に限って基本計画を国会に報告するとした。(⇒「ソマリアの「海賊」問題の資料ブログを参照
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 「海賊新法」(案)は、憲法九条が死文化していることを、改めてぼくらに突きつけている。これまでの解釈改憲の積み上げの上にたてば、自衛隊が「海賊」に攻撃を受ける前に「船体射撃」=武力行使することが憲法違反にはならない、という「解釈」が成り立つからである。もちろん、日本政府の解釈によれば「船体射撃」をしても武力行使に該当しない。「武力行使」と「武器使用」という概念を使い分け、武力行使を、きわめて限定的かつ狭義に解釈しているからである。

 「海賊新法」は、憲法九条が禁じている武力行使や集団的自衛権の行使に「つながる」のではない。そうではなくて、法的にはそれらを「新たな段階へと高める」ものである。護憲派の人々やこの法律に反対する立場に立つぼくらは、もう一度このことをよく考えてみる必要がある。つまり、この新法が「憲法違反」だとするような論法では、とてもたたかえないのだ。政府解釈によれば、憲法九条と「海賊新法」は何らの矛盾なく、共存しているからである。
 まして、「自衛隊はダメだが海上保安庁なら良い」といった議論では、「世界の中の日米同盟」戦略と「資源・エネルギー危機」時代の日本のアフリカ開発戦略という二つの文脈の中で、この問題を捉えることができなくなってしまう。こうしてズルズルとまた、新しい解釈改憲の既成事実が積み上げられることになるだろう。

 ともあれ、「海賊新法」と憲法九条および解釈改憲との関係については⇒「鎖を解かれた安保体制--「軍事同盟」への軌跡」を更新するときに、もう一度整理するつもりでいる。ここではソマリアの「海賊」問題を、「新介入主義」とその破産という観点から、もう少し視野を広げて考えてみることにしたい。

1 「海賊」は「人類共通の敵」か

 昨年一二月一六日に開催された、国連安全保障理事会の⇒「ソマリア沖海賊対策に関する閣僚級会合」。これに出席した西村外務大臣政務官(自民党)は、日本政府の声明として「海賊」を「人類共通の敵」と定義した。

 一部の新聞では報道されたが、意外とこの事実は知られていない。「人類共通の敵」。かなり、グロテスクな言葉である。
 ソマリアの「海賊」は「人類共通」の、つまりはあなたの「敵」であり、ぼくの「敵」でもあるのだろうか? ぼくに関していえば、少なくとも「海賊」行為と国連が定義する行為をした人々を「敵」と定義する感性は持ちあわせていない。

 「海賊」を「人類共通の敵」と定義する感性は、与党公明党も共有しているようだ(⇒公明党の「海賊対策の論点 Q&A」を参照)。しかしこの定義は、もともとはブッシュ政権時代の米国が国際会議の場でくり返し使っていた表現である。

 西村政務官は、自身のウェブサイトで当日の会合のことをふり返り、「ライス米国国務長官を見つけて、海賊対策についての日本における検討状況や、給油法の成立などを説明。ライス長官からは給油法成立について「Excellent!」と感激され、さらに、ソマリアにおいても日本の活動への高い期待が表明された」と書いている。
 ライス元長官に褒められたことが、西村政務官には余程嬉しいことだったのかもしれないが、そう、「人類共通の敵」たる「海賊」撲滅と称して海上自衛隊をソマリア沖に派兵することは、ブッシュ政権からの強い要請があってのことだった。安保と米軍の存在抜きに、日本が「シーレーン防衛」を掲げて自衛隊をソマリア沖に派兵することなど、ありえないことだったのである。

 自衛隊派兵が、米国からの強い要請に基づいたものであることは、日本記者クラブにおけるシーファー元駐日大使の「お別れ講演」(一月一四日)の内容にも示されている

 この講演の中で元駐日大使は語っている。
 「アフガニスタンやアフリカの角などの紛争地域で、国際社会がなすべきことは、まだたくさんあります。そして日本はそれを実行することができます。罪のない人々を犠牲にするという点で国際犯罪者の定義に当てはまる海賊から世界のシーレーンを守ることであろうと、アフガニスタンの紛争現場で貢献することであろうと、日本は実行することができます。
 日本は憲法によりこの種の行動を禁止されている、と主張する人たちもいるでしょうが、私は、日本はこうした行動を取ることによって憲法の約束を果たすことができる、と主張したいと思います」。

 「海賊」にタリバーンにアルカーイダ・・・。
 シナリオは、とっくの昔に書かれていたのである。

 「海賊」たちの顔と名前

 「ソマリアの海賊」は、「カリビアンの海賊」ではない。ジョニー・デップのような、イカした兄ちゃんはいないかもしれない。それでも、当たり前のことであるが、「海賊」には一人ひとり固有の名前がある。この当たり前の事実が「海賊」を一括りに犯罪集団とする政府のキャンペーンとマスコミ報道では見えなくなってしまう。とても危険なことである。
 「海賊」のほとんどは、イスラム教徒としての名前を持っている。統計によって数にバラツキはあるが、ちょうど大阪府の人口と同じくらい(九〇〇万人程度)の「ソマリア」と呼ばれている大地の、統一政府なき国に生きる人々の圧倒的多数(九割程度)はイスラム教徒だからである。

 「海賊」問題を考える前に、彼らがどんな人々なのかを見てみよう。 
 写真家のジェハド・ンガは、「ソマリアの海賊」たちを取材し、ニューヨーク・タイムズに掲載した(The Pirates of Somalia)。
 「海賊」の一人は、名をAbdi Rashid Ismael Abdullahiという。収監されて15年が経つ。それまで長年、漁師として働いていたことを想像させる。顔に皺が刻み込まれ、とても疲れた顔をしているが、ぼくにはこの人が「人類共通の敵」、ましてぼくの「敵」だとは、どうしても思えない。

 「敵とは、形をとったわれわれ自身の問いである」

 カール・シュミットの『パルチザンの理論』のなかの一節である。シュミットは続けていう。
 「敵は、何らかの理由で除去され、その無価値ゆえに抹殺されねばならないところのものではない。敵は、わたし自身と同じ平面に立っている。
 この理由から、わたしは自己の尺度、自己の境界、自己の形態をうるために、敵と闘争しつつ対決しなければならない」

 シュミット学者の中では、このくだりをどのように解釈するか、いろいろ論争はあるようだ。
 しかし、このシュミットの言葉を「ジョージ・ブッシュⅡとビン・ラディン」、「国家と「テロリスト」」、「イスラエルとパレスチナ」、「日本と北朝鮮」などの二項関係を挿入して読み直してみると、「海賊」を「人類共通の敵」と定義し、彼らを「除去」「抹殺」しようとする者たちと「海賊」との関係が浮かびあがってくる。シュミット流に理解すれば、艦隊を派遣し、ソマリアの「海賊」と「闘争」「対決」している国家群は、新しい「自己の尺度、自己の境界、自己の形態」をうるためにそうしている、ということになるだろうか。

 米国は、アフリカにおける新しい「自己の尺度、自己の境界、自己の形態をうるために」、昨年、米軍の「アフリカ軍司令部」を創設した。そして「アフリカの角」をイラク、アフガニスタンと並ぶグローバル対テロ戦争の前線地帯と化し、ソマリアの「イスラム原理主義化」を阻むと称してソマリア内戦に介入し続けてきた(詳しくは後述する)。「海賊対策」の軍事化はその延長線上にあるといってよい。米国とNATO諸国は、「海賊」の中に武装した「イスラム原理主義」と「テロリスト」の姿をみているのである。

 そしてその米国のグローバル対テロ戦争に、日本は小泉政権以降、米軍へのグローバルな「後方支援」体制を築きながら「協力」(=加担)してきた。麻生政権は、これからさらにそれを強化しようとしているのである。米国の「不安定の弧」に対応する麻生版「自由と繁栄の弧」の構築のために。
 つまり、海上自衛隊と「海賊」は同じ海面に立っている。まさに、「海賊」とは「形をとった、ぼくら自身の問い」でもある。「海賊」を論じるとき、ぼくらはこのことを忘れないようにしなければならない。

2 帝国主義の亡霊と植民地支配の遺制  

 ソマリアの海岸(近海ではない。海岸である)へのドラム缶にコンクリ詰にされた核廃棄物や産業廃棄物の直接投棄、またそれらのソマリア沖への海洋投棄、そしてグリーン・ピースいうところのpirate fishingがソマリア近海でくり返されてきたことについては、少しずつではあるが情報は広まりつつある。犯人は誰か。「海賊」撲滅のために艦隊を派遣した国連安保理常任理事国を中心とする国々である。

 これらの問題については、後でまた触れることにする。ここではとりあえず、「資料ブログ」の赤字のところ国連環境計画のレポート(11頁目の写真に注目)、そして「資料ブログ」の冒頭の記事を読んだ世界各地の読者の書き込みを記録したアルジャジーラの記事のfeedbackをみてほしい。
 アルジャジーラの記事への書き込みの一つに、"Josh, United States 19/11/2008"がある。

 "Well maybe if those idiots down in Somalia would stop killing each other they would have a stable government that would be able to stand up for itself. The US under UN mandate tried helping them in the earlier 90's and im sure youre all familiar with the "black hawk down" incident. When you shoot at the people who are trying to give you food and restore peace your not going to get any sympathy from the world."

 「海賊」問題を考えるにあたり、さしあたりぼくらはこのような無知、つまりソマリアで起こってきたことをソマリア人のせいのみにするような思考からぼくら自身を解放することを目的としたい。考えてもみたい。三年連続で「世界最悪の破綻国家」という汚名を浴びせられ、「世界の最貧国」とされているソマリアの「海賊」たちが持っている武器は、いったいどこの国からやってきたものなのか。なぜ、飢餓が蔓延するソマリアには、かつてないほどの武器が溢れているのか。
 これらの問いに対する答えを出すためには、ソマリアの植民地支配の歴史と、ソマリア「独立」後の日本とソマリアの関係、日本にとってソマリアとは何であったのかについて、基本的な事実を押さえておく必要がある。

①「戦後」日本とソマリアの関係史

 ポスト冷戦時代に生まれた人の中では、ソマリアという国を強く意識したのが今回の「海賊」問題が初めてという人がいるかもしれない。しかし、多くの人にとっては、一九九〇年代前半期のソマリアの内戦と難民問題、その後の国連と米軍の軍事介入とその失敗、そして撤退と続いた一連の出来事だったのではないだろうか。
 実は、それよりはるか以前にソマリアは何度か日本の政治シーンに登場している。その最初は、一九六〇年代末期から七〇年代の初期にかけてのことだった。

 1)日本の核(原子力)開発とソマリア

 「数年前から動力炉開発事業団で海外ウラン探鉱という項目を設けまして、鋭意いま海外に出ておるわけでございます。そうして、いま比較的精密な調査をしていますのが、カナダとオーストラリアとございます。なお、その中間で、フランスが日本と共同でアフリカのニジェールの開発をしたらどうかという話で、共同で現在ニジェールの開発のための海外ウラン開発株式会社というものを去年設置いたしまして、そこは鋭意進んでおります。

 あと、ソマリアにも手を出す予定にしております。しかし、これではまだ足りませんので、昭和六十年になりますと十二万トンぐらいのウランが必要になりますが、現在民間が長期契約等で獲得しておりますのは三万八千トンぐらいでございます。

 したがって、まだ三分の一ぐらいの獲得でございますから、もっともっとやはり海外に、たとえば探鉱を進めて日本自身の権利も持って、それで開発していくべきじゃないかということで、もう間もなく始まりますが、原子力委員会にウラン資源開発懇談会を設けまして、この六月までにはその対策を出すという形にしております」
(科学技術庁・研究調整局長梅澤邦臣。一九七一年二月二六日、衆議院・科学技術振興対策特別委員会における発言)

 「最近はだいぶ海外探鉱ということに目を向けておりますけれども、これを政府は指導しない。電力会社は技術者なしに、金さえ出せば外国でやってくれるのだということで、あなたまかせのかっこうになっている。こういうことではきわめて不安定だ・・・。

 コンゴがあり、オーストラリアがあり、それからソマリア、あるいはまたニュージーランドあたりも有望な鉱区がたくさんあるわけなんで、何としても目標最低三分の一ということにして、それは絶対に確保しなければならない」
(石川次夫(日本社会党)。一九七〇年七月三一日。同じく衆議院・科学技術振興対策特別委員会における発言)。

 「ソマリアにも手を出す予定にしております」・・・。
 戦後の日本の政治シーンにソマリアが初めて登場するのは、中曽根康弘を初代長官とする科学技術庁の下で始まった、国策としての核(原子力)開発のための燃料資源(ウラン)を「絶対に確保」する、その戦略的対象国としてだった。それは当時の野党第一党だった日本社会党も党として推進した、まさに国家的プロジェクトとしてあったのである。
 他のアフリカ諸国との二国間関係と同じように、潜在的資源開発国としてのソマリアのウランを「確保」すべく、ソマリアに対する開発援助の供与がこうして議論され始めるようになった。つまり、アフリカに対する日本のODAや「技術援助」は、当初から「人道的観点」から始まったのではなかったのだ。それは、日本の「国益」に基づく「国策事業」として明確な国家戦略の中に位置づけられたものだったのである。

 麻生自民党は、今回「海賊対策」任務につく自衛隊員の安全を確保するために、「ソマリア周辺国が実施する対策を政府開発援助(ODA)で支援する方針を決めた」(読売新聞。3月13日)ように、「ODAの戦略的活用」はODAの歴史とともに始まっていたのである。

 2)安保戦略と一体化するソマリアへの「人道援助」

 けれども、このような「戦略的資源の安定的供給」を第一目的に据えたアジア・アフリカにおける日本の開発援助戦略は、一九七〇年代を通じて、やがて安保戦略に沿ったものへと変質をきたすことになる。その最大の理由は、アジア・中東・アフリカ地域において、米ソの覇権抗争に構造的な変化が起こったことである。
 ソマリアを例にあげてみると、日本がまさにソマリアのウラン開発を国会でしきりに議論していた一九六九年に軍事クーデターが起こり、軍事政権は「社会主義」路線の下で旧ソ連との軍事的・経済的関係を強化するようになる。

 ところが、一九七七年、ソマリアはソ連との関係を絶ち、ソ連圏からの離脱をはかった。ソ連の支援を受けていたエチオピアとの領土問題が引き金になったものである。そしてこの時期から、米国(民主党カーター政権)によるソマリアを含む「アフリカの角」と中東を網羅した地域への本格的な介入と軍事独裁政権へのテコ入れが始まる。日本の対アジア、対アフリカ、対ソマリア政策は、そうした米国のアフリカ・中東戦略を「経済援助」の側面からバックアップするものへと変質していくわけである。
 少し長くなるが次の四つの引用に目を通すなら、問題の所在がかなりはっきりするだろう。
 
 「我々の勧告にこたえてソ連のアフガニスタン侵攻後、日本はエジプト、ソマリア、トルコ、パキスタンに対してそれぞれ一億ドル以上に経済援助を増額した」
(一九八三年三月二十二日、米国下院歳出委員会の軍事建設小委員会における米陸軍ケヴイン・マホー二ー少佐の証言)。

 「一九八一年五月の日米共同声明で、世界の平和と安定の維持のための重要な地域に対して我が国が援助を強化していく旨述べましたのは、世界の平和と安定の維持のためには開発途上国の安定が不可欠であり、したがって、援助を通じ開発途上国の経済社会関発を支援し、民生の安定、福祉の向上に貢献することがこれら諸国の安定をもたらすとともに、広く国際間の緊張を緩和することに貢献することになるという基本認識に基づくものでありまして、我が国は南北問題の根底にある相互依存と人道的考慮という立場から、開発途上国の経済社会開発を支援し、民生の安定、福祉の向上に貢献をするため援助を実施しておるわけでございます・・・。

 具体的にどの地域が世界の平和と安定の維持のために重要な地域に該当するかにつきましては、そのときどきの国際情勢に応じて我が国が自主的に判断することといたしておりますが、我が国が従来よりASEAN諸国、中国、韓国を初めとするアジア地域に重点的に援助を行ってきていること、及び近年、例えばパキスタン、エジプト、ケニア、スーダン、ソマリア、ジャマイカという諸国に対する援助を強化してきたことはそのあらわれでもあることをひとつ御理解をいただきたいと思います」
(参議院の外交・総合安全保障に関する小委員会における安倍晋太郎(外務大臣)の発言。一九八四年七月四日)

 「最近になってみられるエジプト、パキスタン、トルコ、スーダン、ソマリア、およびアラブ湾岸諸国の一部、さらにカリブ海地域などに対する援助の拡大は、戦略的に重要な地域に対する援助の政治的重要性を日本が認識していることと、より広範囲にわたって日本が世界において政治的イニシアティブを発揮していく決意の表われとして大いに評価すべきものである」
(「日米諮問委員会報告書」一九八四年)

 「一つは、日本の援助量の拡大というのを非常に評価しております。それからもう一つは、ODAが日本の総合安全保障政策にとって極めて重要な役割を占めてきているということが第二点かと思います。
 それから第三点が、日本のODAが六〇%、七〇%アジアに向けてきたが、最近になってエジプト、パキスタン、トルコ、スーダン、ソマリア及びアラブ湾岸諸国の一部、さらにカリブ海地域などに対する援助の拡大は、戦略的に重要な地域に対する援助の政治的重要性を日本が認識していることと、より広範囲にわたって日本が世界において政治的イニシアチブを発揮していく決意のあらわれとして大いに評価するということであります」
(一九八五年四月一六日、衆議院大蔵委員会における政府(外務省)答弁)

3 新介入主義とは何か

 新介入主義(new interventionalism)とは、冷戦体制崩壊後の旧植民地宗主国による旧植民地諸国に対する「新しい」形態の「介入」を正当化するイデオロギーの総称である。「介入」は軍事的なものから、政治、経済、文化全般におよぶ。

 新介入主義は、
①主権国家が国家としての統一的統治能力を喪失し、その結果、国内の「民族紛争」や「人道的危機」が起こり、
②そのまま放置すればそれらが地域のみならず「国際の平和と安定」の阻害要因となる、だから、
③国連あるいは国際的な「介入」によって「秩序」を回復し、「国際の平和と安定」を維持する必要がある、 といった三段論法によって自らの政策を正当化する。
 
 「東アフリカのアフガニスタン」とも呼ばれているソマリアにおいても、一九九〇年代以降、米国を中心とする国連(安保理)によって新介入主義に基づく介入が繰り返されてきた。そしていまソマリアで起こっていることは、まさにその新介入主義が政策的に破産した結果だとみることができる。「海賊問題」とは、ソマリアに対する新介入主義の破産の氷山の一角にすぎないのである。

 問題を複雑にするのは、多くの場合、新介入主義を正当化する論拠の中には、否定することができない事実があるということだ。ジェノサイド的様相を帯びた民族「紛争」、女性へのレイプ、子どもの虐殺、目を覆いたくなるような人権侵害・・・。
 どれだけ欧米帝国主義による植民地支配の歴史、あるいは戦後、アフリカ大陸を舞台にして展開された米ソの覇権政治、さらには欧米諸国の「新植民地主義」政策の実態を暴き、それらの矛盾を指摘しようとも、「人道的危機」がアフリカや世界各地で起こっている現実は無視できないできないからである。「海賊対策」のためとされている大国の艦隊のソマリア沖派遣の意味を考えるときにも、ぼくらはこの事実を踏まえておく必要があるだろう。

2009年3月6日金曜日

医療大麻裁判について

 非常に唐突な感じが否めないけれど、三月一二日(木)、東京地裁で成田賢壱さんの医療大麻裁判の第一回公判がある。詳しくは、できたばかりの「支援する会」のホームページをみてほしい。

 ぼく自身は運動には関わっていないが、医療大麻に限らない大麻の合法化や、いわゆる「精神医療」における患者の薬漬け問題などは、長年考えてきた問題である。個人的には、対テロ戦争と麻薬撲滅戦争との関連について、これまで編集に携わってきた本の中でも書いたことがある。『大学を解体せよ』という、とにかく大学研究者には評判が悪い本の中では、地方の進学校に入学直後、いじめ問題がこじれて不登校となり、その後「精神医療」にかかり、薬漬けにさせられ、あげくの果てに「統合失調症」と診断され、いっそう薬漬け状態になってしまった、ぼくの身近にいる女性のことにも触れている。

 大麻所持者の厳罰化や、司法・警察・マスコミ一体となった所持者の社会的抹殺を目論んでいるとしか思えない異常な撲滅キャンペーンは、実は「精神を病んだ」と診断されている数百万人規模の現代日本人の薬漬け状態と有機的に関連している、とぼくは考えている。

⇒「毒舌セカンドオピニオン」
⇒「精神科セカンドオピニオン」

 「民族浄化」ならぬ社会浄化、social cleanzing のひとつの形としての厳罰化と撲滅キャンペーン、そしてその一方で人間の脳を薬漬けにすることによって暴利を貪るグローバル製薬産業、メトロポリスに繁殖する「精神医療」、そのクリニック、これらと癒着した厚生労働省に大学の医学部というシステム・・・。
 昨年の早稲田祭に呼ばれ話をしにいったときも、冒頭からこんな話を始め参加者をドン引きにしてしまったが、早稲田、慶応、同志社に限らず学生層を狙った麻薬撲滅キャンペーンはこれからもおさまることはないだろう。

 そこでこの問題を考えるときに、成田さんの今回の裁判は実に多くのことを教えてくれるに違いない。支援する会のリンク先を訪問し、理解を深めてほしいと思う。

2009年3月2日月曜日

猫の首に鈴をつけるのは誰か---小沢発言の波紋

『永遠の安保、テロルな平和』のための随想録⑤

猫の首に鈴をつけるのは誰か---小沢発言の波紋

 小沢民主党党首の発言が波紋を広げている。先週の2月25日の在日米軍再編に関する彼の発言、「極東におけるプレゼンス(存在)は第7艦隊で十分」という表現に端を発したものだ。
 小沢発言の概要と、それに対する各政党とマスコミの反応の一部は⇒「中野憲志の資料ブログ」にまとめている⇒「小沢発言の波紋」をみてほしい。そしてまず、自分だったらこの小沢発言に対して何を語るかを考えてほしいと思うのである。

 かつて「米軍駐留なき安保」を主張し、最近では日米地位協定の「抜本的見直し」を党の政策綱領に盛り込んでいる野党第一党の民主党党首として、在日米軍および基地の規模縮小を提起し、米軍再編に伴う日本の財政負担の増強に異を唱えることは、とりたてて驚くことでも、騒ぎ立てるほどのことでもない。むしろ、「対米追随」としか映らない麻生政権の外交・安保政策に対して、広範な批判が巻き起こらないことのほうが不思議である。

 もちろん、細かいことを言い出せば、小沢発言には疑問や異論が山ほどある。
 最も核心的なことは、「対等な日米同盟」という言葉の定義がよくわからないことである。一応それは、日本が「普通の国」になり、「普通の軍隊」を持てるように憲法九条を改定した暁に、政権をとった民主党政権あるいは民主党を中心とした連立政権が、米国と新たな「日米相互安全保障条約」を締結し直す、ということになるのだろう。
 しかし忘れてならないのは、そのためには現行の安保条約を一度は破棄しなければならないということである。安保条約は、日本が「普通の国」であり、「普通の軍隊」を持つことを前提にはしていないからである。にもかかわらず、民主党のマニフェストからは、そこまで踏み込む意思を民主党が持っているのかどうか、読み取ることはとても困難である。その結果、いま一つ、民主党が「で、安保をどうするのか?」が分からない、としかいえなくなってしまうのである。

 この問題は、民主党の政策綱領の根幹に関わることであるが、それ以前にもっと分からないことがある。それは、なぜ「極東の平和と安定」のために第7艦隊が必要なのか、小沢党首が何もその根拠を明らかにしていないことである。「北の脅威」と「台湾海峡の不安定さ」を根拠に安保と「日米同盟」が必要だという点では、小沢民主党と麻生自民党は一致している。奇妙なことに、両者は「日本の安全保障上の脅威」をめぐる認識を、ほぼ完璧に共有しているといってよい。
 ぼくらがいまこそ考えなければならないのは、「日米同盟」の強化が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の現体制の延命(国家主権の保持)と「自衛権の行使」に名を借りた「先軍政治」と、中国(中華人民共和国)の対抗的覇権政治と宇宙軍拡に正当性の根拠を与えてしまっていることもまた、客観的事実だということである。

 どの国家も、周辺諸国や地域的な「軍事バランス」の不均衡を口実に軍拡と軍事テクノロジーの技術革新を正当化する。そして、「国民」の血税をむしりとりながら、国家=権力の「平和と安定」をはかろうとする・・・。ぼくの小沢発言に対する応答は、「第七艦隊でさえ必要ないのではないか」というものであるが、民主党が責任ある政党としてそこまで真実に踏み込んだ発言をすることを、ぜひとも期待したいと思う。

 小沢発言に対する波紋に関して言えば、残念ながら各党の反応は、あまりに凡庸すぎて、ぼくらの政治的想像力を新たにかきたてるような代物にはなっていない。麻生発言は、「国民」の利益を守るのではなく、「虎の威」ならぬ米国の威を借りて、米国の国益と安保利権を守ることしか頭にないようであるし、共産党も社民党も旧態依然たる党是を繰り返すのみである。
 また、毎日新聞の社説は、安保・基地・米軍再編に対して、社としてどのような立場に立ち、何を政策的に提言するのか、その内容を何も提示せずに小沢発言の矛盾点ばかりを突くものとなっている。その結果、小沢発言よりも何がいいたいのか分からない、没主体的なただの評論になってしまっている。
 毎日新聞の社説との対比でいえば、読売新聞の社説はやや趣きを異にしている。社説は、小沢発言の内容に踏み込み、小沢批判を展開している。読売新聞の社説はいう。

 「「小沢理論」には多くの重大な欠陥がある。そもそも在日米軍の駐留目的は、日本防衛だけでなく、極東の平和と安全の確保にもある。アジアには、北朝鮮の核やミサイル、中国の軍備増強など不安定要因が多い。在日米軍は、朝鮮半島や台湾など日本周辺有事に対する強力な抑止力となっている。仮に米空軍と海兵隊がいなくなれば、その軍事力の空白をどう埋めるのか」。まるで日米両政府の答弁をきいているような錯覚におそわれる。まさにこのような論理が、安保の永続化・米軍無期限駐留の正当化のために、これまで何度も何度もくり返されて主張なのだ。

 しかし、では読売新聞は、安保条約と安保体制、そして在日米軍の駐留が無期限に続いてよい、続くべきだと考えているのだろうか。「北朝鮮の核やミサイル、中国の軍備増強」が、具体的にどのように日本や「周辺」の「有事」に発展しうるというのか。軍事的デモンストレーションはこれまでもあったが、実際に中国が「台湾」を侵略し、武力で統一するなどという事態がありえるのだろうか。「国益」上の利害対立はあるにせよ、いやそれらをも外交ルートで調整しながら、中国との「戦略的互恵」関係をさらに深めようとしているのがいまの日中・米中の関係であり、「中国の軍備増強」を安保正当化論の引き合いに出すのは、まったくの時代錯誤、現実とかけ離れた空論だというほかはない。
 くり返しになることを恐れずにいえば、「北朝鮮の核やミサイル」は、日米安保と韓米安保に対する防衛的=対抗的手段として位置づけられている。ということは、いまだ「休戦」状態にある朝鮮戦争を完全終結させ、米朝の国交回復をはかり、それに伴い朝鮮国連軍の撤退と米韓安保の段階的解消がなされ、これらと連動した日米安保の段階的解消、在日米軍の段階的撤退へ向けたロード・マップを描くことこそが、「極東の平和と安全」につながる「安全保障」政策だというべきである。
 毎日新聞と読売新聞の編集委員や記者たちには、もう一度社説の内容をよく練り直し、自社として何を語るか、検討し直してもらいたいと思うのだ。(⇒「「日米同盟」の呪縛――「日米同盟」とマスコミ」を参照

 ぼくとしては、来年、再来年と続く「安保条約半世紀」「安保体制六〇年」を前に、小沢発言が安保論議の「パンドラの箱」を開けること、そして安保利権と「右」から「左」、「保守」から「革新」のイデオロギーのスペクトラムをすべてシャッフルし直し、「で、ぼくらは安保をどうするのか?」、この議論の呼び水となることを、ただただ願うばかりである。その議論を、いまから本格的に始めること。これこそがぼくが提起したいことのすべてである。これから生まれてくる子どもたちが、二〇年、あるいは三〇年経っても同じ水準の議論を繰り返さずにすむように・・・。

 こうして話はめぐりめぐって⇒『永遠の安保、テロルな平和』の「はじめに」へと戻ってゆくのである。

 猫の首に鈴をつけさせないのは誰か

 小沢一郎民主党代表の公設第1秘書ほか3名が、準大手ゼネコン「西松建設」から違法な企業献金を受け取っていたとして、昨日(3月3日)逮捕された。この事件が今後どのように進展していくか、とても予想することはできない。しかし、事件の真相とは別の問題として、この事件および事件の進展をめぐる今後のマスコミ報道が持ちうる政治的効果について、ぼくらは慎重かつ冷静に、事件そのものと距離を置いて分析しなければならないだろう。

 もちろん、与野党と問わず「金権政治」を一掃し、国会から地方議会にいたるまで「クリーンな政治」が貫徹されることに誰も異論はない。抜け穴だらけの法であれ、現行法の「厳粛」で「公正」な執行がなされることをこそ望みたいと思う。しかし、今回の逮捕劇には、そうした問題だけでは済ますことのできない政治的波及力がある。

 「国策捜査」が事実であろうがなかろうが、いまのこの時期に野党第一党の党首の側近が逮捕されたという事態そのものの中に、何がしかの「国策的要素」が潜んでいるとみるべきである。この事件をめぐるマスコミ報道に翻弄されずに、それが何かを見極めることが重要である。