2011年2月27日日曜日

「民衆のパワー」がウィスコンシン・マジソンから全米へ

「民衆のパワー」がウィスコンシン・マジソンから全米へ

 この週末、予想した通りにウィスコンシン・マジソンの「民衆のパワー」が全米に飛び火した。この数週間、マジソンでは最初は1万とか1万5千人といわれたデモ参加者が先々週の週末には3万人、先週には7万とも8万人と言われる数に膨れ上がり、10万人規模の抗議デモ・集会がもたれるにまで爆発した。Democracy Now!が報じている。 ワシントン・ポストの記事では、議事堂内の抗議行動のビデオが観れる。
 結局、日本でもよくありがちの、民主党と共和党のボス交で、誰も満足しない、みんなが頭にくるような法案が深夜に通過したようだ(⇒知事が拒否し、未通過)。日本の報道でも、全米50州にウィスコンシンの行動をサポートする地方公務員労働者のストライキや抗議デモが拡大していることが伝えられている。少し景気付けに。

People Have The Power - Patti Smith

2011年2月25日金曜日

「虐殺を見過ごすことは許されない」?

「虐殺を見過ごすことは許されない」?

 博愛主義者は、人殺しをしない。論争もしない。
 博愛主義者は、人に金を渡し、殺させ、論争させる。
 利子がついて、返ってくることを知っているからだ。

 博愛主義者は、人類の不幸を嘆く。
 「困ったものだ」と眉間に皺を寄せる。
 「どうしたものか」と思案に暮れる。 
 そんな博愛主義者は、今にも死にそうな、飢えて病んだアフリカの子どもたちが大好きである。

 この世は、お金が欲しい人であふれている。
 ソマリアの海賊とイスラム武装勢力を殲滅するために、米国の民間軍事会社に民兵として月100ドルだかで売られ/買われたソマリアの子どもたちもお金が欲しい。
 「保護する責任」で武装し、21世紀の国連のモデル国家となり、日本と同じように安保理常任理事国入りをめざすカナダの民主党党首もお金が欲しい。
 イスラエルの入植政策を批判する国連安保理決議に、またしても拒否権を発動したオバマもお金が欲しい。一期だけで消えるなんてできない。カーターやブッシュ・オヤジの二の舞はまっぴらだからである。
 国連事務局、国連難民高等弁務官事務所、平和構築委員会、日本の国際協力機構もお金が欲しい。緊急人道支援・難民救援活動は21世紀の巨大なグローバル市場となり、巨万の金が流れる超ビッグビジネスになること受け合いである。「バス」に乗り遅れてはならない。

 ハーバードやコロンビア大、distinguished scholarsもお金がほしい。
 パレスチナやアフガニスタンで起きてきたジェノサイドには触れず、アフリカやアジアのそれには信じられないくらい敏感に反応する確信犯的NGOも、そうでないNGOもお金がほしい。
 「イスラエルを批判する者は反ユダヤ主義者だ」とまで言い切ったノーベル平和賞受賞者、アンリ・ヴィーゼルも自分の「平和運動」のためにお金が欲しい。
 みんなみんな、お金が欲しい。
 私だって欲しい。

 「保護する責任」論者は言う。
 「虐殺を見過ごすことは許されない」と。
 しかし、どれだけの虐殺を見過ごしてきたか、いま見過ごしているかは決して自問しない。
 その言葉に欺瞞はないか。慈善と偽善の間にボーダーはあるか。

 博愛主義者の慈愛に満ちた人道主義ほど、この世に恐ろしいものはない。 

2011年2月24日木曜日

ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)が理解できていないこと

ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)が理解できていないこと

 「保護する責任」を推進するNGOの国際ネットワーク、INTERNATIONAL COALITION FOR THE RESPONSIBILITY TO PROTECT (ICRtoP)  が22日付でリビア情勢に関する声明を出した。その中で国連に対し以下の「提言」をしている。

1、カダフィ一族およ弾圧関係者への、即時の資産凍結を含む制裁
2、違法な市民への攻撃命令を拒否するリビア空軍のパイロット他の軍関係者の国外亡命先の保証
3、リビアへの武器輸出・軍事訓練の契約と協力関係のキャンセル
4、文民に危害を与えうる物品の商取引を差控えるとともに、武器売買と輸出を防止する禁輸措置の実施

 また安保理に対し、
1、リビア政府への非難とともに、政府・軍による文民に対する攻撃の即時停止と人道支援物資空輸のための空域の回復を指示すること、
2、国連加盟国に上の1から4の措置を取るべく要請すること、
3、2月1日以降の、リビア政府・軍および傭兵による一連の「人道に対する罪」に関する国際調査委員会を設置し、調査委員会が、リビア政府および国際機関が、犯罪の説明責任を果たす措置を取るための勧告をまとめること、
4、空爆がくり返された場合、国連憲章7章に基づき、リビア空軍の飛行禁止空域を設置すること。

 上の個々の内容に私は反対しない。安保理に対する「4」の提言を除いて。
 当然、カダフィは即刻退陣し、流血無き政権の平和的移行がなされるべきだと考えている。外国の介入無き、リビアの人々自身による暫定政権のための、さまざまな民族・「種族」の代表を始めとする「国民(national)フォーラム」が開催され、憲法制定を含めたそのための政治プロセスを国際的にサポートすべきだと考えている。
 しかし、私が「保護する責任」にNO!と言う責任を主張するのは、これらのこととは無関係である。民衆が政権交代を求め、平和的政権交代をするために「保護する責任」など必要ない。「紛争」を解決するためにも必要ない。これが核心点なポイントなのである。

 問題は、アフリカ・中東・アジア・ラテンアメリカで、政権の平和的移行を認めない権力を、戦後66年間に亘りつくってきたのは誰なのか、というところにある。「保護する責任」はその責任を免罪し、「平和」的「介入の責任」と「最終的手段」としての武力「介入の責任」を主張するところに根本的誤りがある。(また、上の「提言」以外にもやるべきことがある。たとえば、欧米・カナダなど「保護する責任」を推進する国家が「紛争」によって難民化する「文民」にもっと門戸を開放すべく、各国政府に対して要求することなどがこれに含まれる。) 

 「保護する責任」を推進する国際NGOネットワークの「運営委員会」を構成するヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)は、上に述べたことを根本的に理解できていない。ICRtoPには、「保護する責任」の本質を理解した上でこれを推進する、きわめて確信犯的な組織と、比較的そうとは思えない組織が混在している。HRWとOxfamが確信犯的組織なのかそうではないのか、私には分からないが両組織は日本にも支部を持ち、前者は「人権」アドボカシーを行い、後者は人権・開発・救急人道支援活動をプロモートしてきた団体である。

 「保護する責任」のはらむ重大な問題を見過ごしながら、リビア情勢との関係でICRtoPのキャンペーンが日本で展開されることに私は強い懸念をもっている。だから、もう一度論点を整理し、「保護する責任」とこれを唱道するHRWとOxfamの何が間違っているのかを明らかにしたい。両組織の日本支部の理事会・事務局、および会員の人々は、以下の内容を真剣に検討し、内部で議論を深めてほしいと思う。

1、市民組織、NGOは国連あるいは多国籍軍による武力「介入の責任」を容認すべきか?

 国連事務総長報告書にもあるように、「保護する責任」は第一から第三の「柱」すべてを統合した概念である。つまり、第一、第二の「柱」には賛成するが、第三の武力「介入の責任」には反対する、ということはありえないのである。この点をしっかり確認することが重要だ。
 推進派は次のように言う。
 「「保護する責任」は人道的介入や正義の武力行使を目的にしたものではない。主眼はあくまでも国家が文民を保護することにあり、植民地支配の現代版ではない。早期警戒体制の確立などを通じた紛争の予防と、万が一に武力紛争が起こったときの平和的手段による紛争の解決をめざしている。
 ただし、それでも万が一に紛争の解決に失敗したときには、国際社会は座して文民を見殺しにすることは許されない。だから適切な時期に、断固とした方法で、われわれは集団的行動(武力行使)を取り、平和の回復のために全力を尽くす」と。

 もっともらしく聞こえはするが、これは正当化のための論理であり、詭弁である。
 たとえば、上の4「空爆がくり返された場合、国連憲章7章に基づき、リビア空軍の飛行禁止空域を設置すること」が実行されない場合、どうなるのか? カダフィが退陣を拒否し、民衆弾圧を継続したらどうなるか? 「平和」的手段が尽きたらどうするのか?
 これに続く次のステップは、必然的に武力介入によるカダフィ政権の転覆にならざるをえない。カダフィを非難する国連安保理決議の連発に基づき、安保理の承認した多国籍軍がリビアを攻撃し、抵抗軍と戦い、政権転覆をはかり、軍事的占領を通じて「平和の回復」を実現する・・・。こうしたプロセスを経ざるをえないのである。基本的にそれは、イラクとアフガニスタンで行われたパターンをくり返すことを意味する。

 逆に言えば、そういうものとして「保護する責任」は構想され、世界サミットで「確認」され、「履行」段階に現在入っているのである。現在、リビアとともに「履行」の対象になっているのがコートジボワールである。リビアでは武力介入は避けられるかもしれない。しかしコートジボワールはどうするのか、あるいはスーダン、ソマリアはどうするのか。

 HRWとOxfamの日本支部理事会と事務局、そして会員はこうした事態の推移の可能性を容認した上で、「保護する責任」を承認するのだろうか? 私にはそうとは思えない。そしてそうでないなら、ともに「保護する責任」にNO!と言うべきである。少なくとも両組織の理事会・事務局は、組織の活動を支える会員に対し、なぜこのような紛争の、最終手段としての、武力行使による「解決」を認める「保護する責任」を組織として支持するのか、その理由および根拠を明確にし、意見を乞うべきである。たとえ国際本部の決定であろうと、誤りがあるなら支部として表明し、本部に対し意見表明すべきである。
 
2、世界サミット「成果文書」、国連事務総長報告書、「文民の保護」に関する一連の安保理決議を「保護する責任」正当化の根拠にしてはならない 

 私は憲法九条は死文化しているという認識を持っているが、自国の憲法において日本は「国際紛争の武力による解決」を認めていない国家である。憲法論議、護憲/改憲論争が今でも続いているとは言え、明文改憲はされていない。このような国で活動する国際NGOは、国際法や国際規範とともに日本国憲法の制約の下で活動することが求められているのである。

 もちろん、憲法に異論があり、改正の必要ありと認めるところはそのように主張し、運動することはできる。しかし「保護する責任」に関して言えば、その責任を日本が国家として果たす憲法上の余地は、今のところまだない。HRWとOxfamは、まずこの事実を事実として受け止めるべきである。そういう日本の国家的立場を支部として表明し、国際的・国内的なアドボカシーと活動を展開すべきである。つまり、2005年の世界サミット「成果文書」以降の、一連の国連事務総長報告書や「文民の保護」に関する安保理決議をもって、「保護する責任」の正当化の根拠にすることはできないのである。理事や事務局スタッフは、このことをシリアスに考えるべきである。

3、熟議無き、拙速な「保護する責任」の国際規範化とその実行を容認してはならない

 おそらく、このブログの読者も私の文章を通じてはじめて「保護する責任」という言葉をきいた人が多いに違いない。また、言葉を知ってはいてもこれに重大な問題がはらまれているとは考えなかった人も多いことだろう。
 その責任は、これを国連で承認し、背後で促進する役割を担ってきた外務省・国連大使や、緒方貞子・国際協力機構理事長、元ユーゴスラビア内戦時に国連文民保護軍の「指揮」を執った明石康氏などの影響力もさることながら、次にみる「保護する責任」の概念的形成・確立過程における〈政治学〉を踏まえずに、世界サミットで「確認」され「地球規範」化されたことを与件とし、これを論じてきた一部(ほとんど?)の大学研究者の論考そのものに問題がある、と私は考えている。順を追って説明しよう。

 たしかに、「保護する責任」は世界サミットの「成果文書」において「確認」され、以降、これの「履行」に関する事務総長の報告書をはじめ、国連の「平和活動」の改革問題に関する報告書、さらには「武力紛争における文民の保護」に関する安保理決議等々が公表されてきた。
 しかし、加盟国には今でも「保護する責任」に反対・疑義を表明している国々が存在するし、さらに言えば、加盟国の中でこれに対するマトモな審議を行った国など一つもない。おそらく「国政の主権者」の99.9%が「保護する責任」の何たるかも知らず、国会でその承認をめぐって審議されたこともない日本の現実は、推進派が「地球規範」になったというこの概念の国際的受容をめぐる問題性を、もっとも象徴的かつ端的に表現していると言えるだろう。
 
 ある意味で、「保護する責任」はこれを推進する勢力の、戦略的・計画的な国連事務局の「ハイジャック」によって「規範」化され、「履行」段階へと移行してきた政治的概念である。その背後には、米国の億万長者が創設した巨大な「博愛主義」財団から流れる資金フローがある。

 ①「博愛主義」と「保護する責任」
 「保護する責任」(R2P)の概念的ルーツは、米国のブルックリン研究所が1996年に発行した『責任としての主権---アフリカの紛争管理』にある。この書は、戦後冷戦体制が文字通り崩壊局面の真只中にあった1990年から8年間をかけて研究所が行った「アフリカの紛争解決」プログラムの研究成果として発刊されたものだ。このプログラムに190万ドル(当時の為替レート換算で2億5千万円程度)を資金援助したのが他ならぬカーネギー財団だった。

 カーネギー財団はさらに、1995年から2000年にかけ、3020万ドルを費やした「カーネギー破滅的紛争予防委員会」(PDC)を設立し、100を超える「プロジェクト」を行った。このPDCがそのまま、2001年12月にカナダ政府の肝いりで結成された「国家主権と介入に関する国際委員会」へと発展し、R2P推進派のバイブルとも言うべき『保護する責任』刊行へと結実する。この「国際委員会」のメンバーであり、ICRtoP代表としてキャンペーンとロビーイング活動に世界中を駆け回ってきたオーストラリア人の元外交官、ギャレス・エバンスも右のPDCのメンバーだったのだ。

 カーネギー財団なくしてR2Pなし。これがR2Pの起源であり、すべての事の発端である。
 上の「国家主権と介入に関する国際委員会」の『保護する責任』の発刊以降、世界サミットをはさんでこの間、カーネーギー財団を始めとする博愛主義財団が、カナダ・EU・米国の推進派政府、シンクタンク、大学、NGOに億単位の資金提供を行いこれの国際規範化と実行化をめざしてきた。言葉を換えるなら、巨大な国際的「R2Pコグレマット」が形成されてきたと言ってもよい。

 具体的に言えば、カーネギー、フォード、ロックフェラー、シモンズ、ウィリアム・フローラ・ヒューレット、ジョン・D・キャサリン・T・マッカーサー財団などが拠出する億単位の資金が、研究・出版プロジェクト、アフリカを含めた国際会議(日本を含む)の開催を始め、R2Pに関連する安保理決議をあげるためのロビーイングや国連事務総長名の「報告者」作成等々のために毎年のように流れきたのである。無論、日本を含む援助大国も多大の税金をそのために注ぎ込んできた。

 こうした資金フローの下で、政府系・独立系のシンクタンク、大学、国際NGOが動いた。列挙すればキリがないが、たとえば、カナダの国際開発研究センター(IDRC)や米国の国際平和研究所(IPC)などのシンクタンク、ハーバード・コロンビア・スタンフォードなどの米国の主要「有名」大学の関連研究所、先のR2Pを推進する国際NGOの連合組織ICRtoPに名を連ねる世界連邦運動、ジェノサイド・インターベンション、オクスファム、ヒューマンライツ・ウォッチ等々の国際人権・開発NGOである。

 ②対テロ戦争と「保護する責任」
 カーネギー財団のブロジェクトに端を発したR2Pが、10年前の「9・11」後のブッシュ政権のアフガニスタン空爆⇒対テロ戦争の勃発⇒英国他の連合国軍の参戦⇒NATOの「集団的自衛権」の行使⇒タリバン政権転覆⇒「アフガニスタン復興国際支援国会合」の結成、という一連の流れと見事なまでに軌を一にしていることに私たちは注意する必要がある。要するにR2Pは、
第一に、冷戦崩壊後の安保理常任理事国を軸とする大国および国連がアフリカの紛争を「管理」するという発想の中から生まれ、
第二に、旧ユーゴ内戦に対するNATOの空爆を経て、21世紀初頭における「対テロ戦争下における文民保護」という政治的文脈の中で発展してきた概念なのである。R2Pは「テロとの戦い」を「国際の平和と安全」を「維持」する不可欠の「戦い」=国連的正義とし、米軍やNATO軍による市民虐殺・戦争犯罪を安保理が問わないという合意の下で「地球規範」化され、「履行」されようとしてきたのである。

 ③日本政府・外務省、緒方貞子・国際協力機構理事長の責任
 (後日説明)

4、冷戦時代の「残酷な遺産」の未総括--安保理常任理事国の戦争犯罪を免罪する国際NGOの二重基準と共犯性

 もっとも分かりやすい言い方をすれば、R2Pは、米ソ冷戦体制崩壊後の米英仏を中軸とした新世界秩序の形成過程において必然化される「民族紛争」の予防と管理を国家の責任とし、それが果たされぬ場合に有志国家連合が国連憲章の規定と安保理決定に基づき武力介入し、国家と地域の安定化をはかろうとするものである。

 冷戦が崩壊局面を迎えた1980年代後期から、崩壊後の90年代前半期、旧ソ連・東欧諸国やアフリカ諸国の「民主主義構築」や「市民社会構築」論が、欧米のアカデミズムで興隆する。体制移行期に「紛争」が避けられないことを前提とし、それを「予防」・「管理」しつつ、その先に広がる「介入による国家建設(state building)論」としてこれらが盛んに「研究」された。先にみたカーネギー財団の一連の「プロジェクト」もその一環としてあったのである。

 これらの「理論」は、「革命の輸出」ならぬ「民主主義・市民社会の輸出」理論としてあった。欧米列強によるアフリカ・旧ソ連圏へのそれらの「移植」「外部注入」論と言ってよい。しかし、たとえばリビアがそうであるように、マトモな憲法もない国、また憲法はあっても「自由権」さえ保障されていない国家が、旧「社会主義」諸国や形式的に「独立」を果たした旧植民地諸国の実態だった。何度も触れたように、米ソは世界中でそうした開発軍事独裁国家を育成し、支えながら「覇権抗争」を展開してきた。そしてその他の安保理常任理事国もそれらの国々を資源開発と自国の兵器生産のはけ口としてきたのである。

 この〈構造〉が、世界遺産の数より多い冷戦時代の「残酷な遺産」を生み出すことになる。だから冷戦崩壊後において、その政治・経済・社会的総括抜きに「民主主義」「市民社会」を外部から構築するなどという「プロジェクト」が破産するのは明らかだったし、今後もそうなるのは必然である。

 リアル・ポリティクスにおけるR2Pは、この〈構造〉にいっさい手を付けようとしない。「国境を越えた紛争」が「国際の平和と安全」の「脅威」になるという認識の下で、それを一国内で予防・管理・処理するために「平和的」と「最後の手段」に分けた「介入の責任」を云々する・・・。そのためには内政不干渉と武力不行使原則の例外条項としての国連憲章第51条(「個別的または集団自衛」の権利としての武力行使)に加えた、新たな「地球規範」がどうしても必要になる。それがR2Pの本質である。

(なお、国連憲章第51条の成立過程、およびこの条項の安保理常任理事国による濫用の歴史的事例などについては、拙著『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の「第6章 国連憲章第51条と「戦争と平和の同在性」を参照のこと)

2011年2月23日水曜日

リビア空爆と「保護する責任」‐‐リビアへの「人道的介入」にNO!という責任

リビア空爆と「保護する責任」‐‐リビアへの「人道的介入」にNO!という責任

 空爆に対する在日リビア人の抗議行動が今日の午後、予定されている。
・2月23日(水) 16:00~17:00
・リビア人民局(大使館)前(東京都渋谷区代官山町10-14)
・地図:http://www.doko.jp/search/shop/sc70324367/#mapBlock
・最寄駅:東急東横線 代官山駅
・主催者:アーデル・スレイマンさん(在日リビア人学生)他
・ツイッターアカウント @libyanintokyo

 この事態に対し「国際社会は介入すべき」という表現を、ネット上で一部の人々が不用意に使っている。「国際社会」とはどのような国々をさし、「介入」とは具体的に何を意味するのかを明確にしないまま、情緒的にこの言葉が語られるのはとても危険だ。20年前のソマリアへの「人道的介入」の悲惨な結末、1990年代を通した旧ユーゴスラビア内戦がNATO空爆の大惨事に帰結したことを忘れてはならない。

 リビアを含めたアフリカ・中東の独裁国家体制に共通しているのは、ヨーロッパの旧植民地宗主国からの「独立」達成後の国家建設が「開発軍事独裁」体制の構築として進んだことである。これらの国々は、国軍・ゲリラ勢力双方とも、東西両陣営の通常兵器・小型兵器輸出の最大の市場として兵器漬けにされてきたのである。今も何も変わらない。その兵器が群集に対する空爆を行い、その兵器で武装した特殊部隊・傭兵が民衆を虐殺したのである。

 民族主義・ポピュリズムに社会主義を合体させた国々が開発独裁国家として、最悪の人権侵害・独裁国家になっていったことを思い起こす必要がある。アジアでもそうだ。民衆に基本的人権さえ保障せず、反政府運動を軍事的に弾圧し、開発のために少数民族・先住民族の土地を奪い、強制移住させ、虐殺してきたこうした旧ソ連派や「非同盟」の社会主義を標榜してきた開発独裁と、米国や旧植民地宗主国の「傀儡」政権として前者以上の規模の犯罪の数々を、権力構造の腐敗を深めながら行ってきた開発独裁の国々がある。

 「保護する責任」や「人道的介入」を言う前に、こうした冷戦・ポスト冷戦時代の日米欧・ロシア・中国の対アフリカ政策と開発戦略に対する分析を行い、何をなすべきかを考えることがとても重要である。
 日本の政府要人が今回の空爆に対し意味不明のことを語っているのを批判することと、「国際社会の介入」を主張することは、まったく別の次元の問題なのである。

2011年2月21日月曜日

サハラ砂漠の蜃気楼に浮かぶのは社会主義ではない

サハラ砂漠の蜃気楼に浮かぶのは社会主義ではない


〈ボクらの資本主義〉と〈少しはマトモなデモクラシー〉

 アフリカ、中東の反独裁のたたかいは、どこに向かうのか?

 「ボクら」は非常に困難な時代に生きている。というのは、今の〈体制〉にとって代わるべき〈体制〉のビジョンが思い描けないからだ。「自由経済」に代わる「計画経済」、「民営化」に代わる「国有化」、「私的所有の廃絶」など、「民衆蜂起」によって「権力奪取」をめざす「古い革命」のヴァリエーションでは問題解決に何もつながらない。

 資本主義社会の「自由と民主主義」は権力を独占する「ブルジョアジー」のものであって、これを「真の自由と民主主義」にするためには「プロレタリアート」や「プレカリアート」が「権力」を握る「革命」が必要だ、「権力を打倒せよ!」・・・・。世界的にみれば、こういう言説・イデオロギーが今でも「民衆のパワー」を突き動かす原動力の一つになっている。

 しかし、それは「オルタナティブ」にはなりえない。ボリビアをはじめとするアメリカ大陸の「先住民族・民衆のパワー」が表現してきたのは、そういうことなのだと私は考えてきた。

 今から20年ほど前、冷戦崩壊直後の数年間、米国はテキサスの片田舎に引きこもっていたことがある。
 湾岸危機から湾岸戦争の勃発、ソマリアの「人道危機」と国連と米国の「人道的介入」、ロサンジェルスの「黒人暴動」と日本では報道されたNo Justice, No Peace!ムーブメント、旧ソ連の崩壊・レーニン像の倒壊、「ユーゴ内戦」と「民族浄化」が日本よりもはるかに先駆けて「人権問題」として米国の主要メディアで報道され、メキシコのマヤ先住民族、「サパチスタ」の武装蜂起が起こり、南アの「革命」があった直後までの数年間である。

 いろんなことをハショッテ言えば、当時の「ボク」が体験したのは、1989年の「天安門事件」や「ベルリンの壁の崩壊」など、それまで「ありえない」と思っていたことが次から次に現実に起こり、「時代は変わっている」と強烈に印象付けられたことが、1990年代の最初の数年間を通して、逆の方向へと急激に変化していったことである。
 それは、今後の数年間において、また現実のものになりえるのである。「ほんの少しでもマシ」になるのでなく、「もっとヒドク」なる方向に向かって。

 この20年、いろんなことが言われてきた。「持続可能な開発」「フェアー・トレード」「マイクロ・クレジット」「連帯経済」「地域通貨」「債務削減・帳消し」「人間の安全保障」「国際金融取引・投機市場における規制強化・腐敗防止」、アチラコチラの「非核地帯構想」「独裁政権への武器援助規制」と非合法の「小型武器密輸規制」等々、等々、もう一つ等々・・・。
 毎年のように国連諸機関、G8、WTO、G20、NATO、世界社会フォーラム等々等々の会議があり、抗議行動が展開され、フォーラムが開かれ、「民衆」の共同宣言文が発せられてきた。

 たとえば、上に列挙した「オルタナティブ」のすべては、リベラル資本主義経済システムの下でもいくらでも可能なことだ。「少しはマトモな資本主義」のための政策提言を超えるものでは、まったくない。にもかかわらず、世界の現実はこの20年、「ほんの少しでもマシ」になるのではなく「もっとヒドク」なる方向に向かって進んできた。
 つまり、「可能」なはずの「もう一つの世界」が「不可能」になってきた原因を、体制やシステムを責め続けながらそれらに求め続けていたのでは、これからも何も変わらない、変えようがないということである。それでは永遠に不可能な「もう一つの世界」を叫び続ける、ただのパフォーマーでしかなくなってしまう。

 「世界の何が問題か」を分析することは比較的容易なことだ。それをどう変えるかを「提言」し、その「提言」が実現されなかったなら、「なぜ実現されない/できないのか」、その分析が必要になる。そしてそれに基づき、同じ結果を招かないように次の「提言」をまとめる。デッド・ロックに乗り上げたなら、どこで、何がそうさせたのかを考え、シェアする。その「デッド・ロック」は決して「体制」とか「システム」という抽象的なものではないはずだ。国際法・国内法・協定の文言であったり、そもそも国連・政府・官僚機構・政党に意思がなかったり、もともとの「提言」自体が実現可能性ゼロのものであったり、いろいろである。

 私が1990年代にもっとも「マシ」だと考え、その主張からも学んできたいくつかの国際NGO、今世紀に入って以降の「もう一つの世界」に集う組織や活動家たちに欠落していると思えるのは、多くの場合そういう具体的な分析、自分たちの活動・主張に対する反省、失敗や誤りを認め、明らかにしようとしない体質、一言で言えば自分たち自身の活動自体の「フォローアップ」を積み重ねようとしないあり方、等々である。それはワンパターン化されてゆく「声明」や「提言」にもっともよく示されている。
 
 だから「ボクら」は、冷戦崩壊後「新しい世界」をつくるための「オルタナティブ」としてさまざまプロモートされてきた理論・言説の数々が、「オルタナティブ」にならなかった、「新しい世界」をつくらなかった事実から出発する必要がある。この作業はネオコン・ネオリベ・権力者・独裁者を批判してそれですむようなことではない。それらを批判してきた者たちの理論・言説をも批判的に再検証し、何が誤ってきたのかを問い直す作業につながらなければ、同じことをくり返すだけになるからだ。だから、とても困難な作業にならざるをえないのである。
 とくに、冷戦崩壊後に生まれた人々、そして世界の「新左翼」運動、「アナキズム」運動、「解放闘争」が悲惨な遺産を残していった時代の只中以降に生まれた人々は、このことを真剣に考えてほしい。

 〈ボクらの資本主義〉が少しも〈マトモなデモクラシー〉にならないのはなぜか?
 にもかかわらず/であるからこそ、みんなfreedomやliberty, democracy now!と叫び続けてきたし、今も叫び続けている。そしてこれからも間違いなく、叫び続けることになる。
 いったいなぜ日給1ドル、2ドルで働かされ、生きている「民衆」がdemocracy now!と叫び、銃撃戦を戦ったり、死を賭してデモをしなければならないのか。〈ボクらの資本主義〉はいったいどんな資本主義なのか?


facebookとtwitterは「オマカセ民主主義」を越えられるか

 すべての国の政府・官僚機構、議会政党にメディア、もっと言えば市民・社会運動やNGOもサイバー空間で起こる〈革命〉についてゆけない。これが〈今〉の情況である。というより、誰もがそうなのだ。「政治」という特殊な世界において、それがもっとも醜悪な形で表出しているだけの話である。

 冷戦崩壊後に生まれた人々はもちろん、ちょうど30年前にレーガン政権が登場し「レーガノミックス」やイギリスの「サッチャー主義」が席巻し、いわゆる「新自由主義」経済政策が「新保守主義」の政治と合体したころに生まれた人々は、冷戦崩壊⇒バブル崩壊⇒「失われた10年」となった1990年代の「政局」の大混乱⇒政界の再編に次ぐ再編の過程を体験していない世代になる。
 この二つの世代がこの1月半ば以降のアラブ・イスラム社会の「革命」の担い手だ。「ボク」と同世代の人々は、若い世代がセッティングしたステージ(広場)にかけつけ「積年の恨み」を晴らそうとした、そんな感じだろうか。

 で。これからの数年、2010年代の半ば・あるいは後半期まで、あの頃ほど悲惨ではなくともまた同じような日本の議会政治の大混乱・「政界再編」を私たちは体験することになるかもしれない。政権与党をめざす政党のプラットフォームが定まらず、しかもどの政党も変わり映えのしない「マニフェスト」しか出せず、「争点」なるものがきわめてテクニカルな「やりかた」の違いでしかないような、そんな「政策論争」が延々とくり返される時代である。

 もうすでに始まっているが、それは政治的ニヒリズムというか、「日本の(議会)政治が変わることによって何かがもしかしたら変わるかもしれない」、そんな風にはとても思えない何とも鬱屈した気分が社会的に蔓延する時代である。無党派層が有権者の5割から6割(6割から7割?)になる時代。「国政選挙」の投票率が5割を割り、4割を割り、それでも「政治」や国が「回っている」時代。

 そのとき、上昇・安定志向を持たない/持てないタブレット・カルチャー第一世代の人々が、どういうムーブメントを起こすか/起こせるか。それが10年後/20年後に〈少しはマトモなデモクラシー〉に日本がなっているかどうかを決めることになる。そうしてセッティングされたステージ(広場)に「ボク」もかけつけ、「積年の恨み」を晴らすことができるだろうか。日本における戦後政治の終焉、ポスト冷戦時代のほんとうの幕開けは、そのときはじめてやってくるのかもしれない。

Talkin Bout A Revolution, Tracy Chapman

2011/2/23

関連資料サイト一覧(ランダム)
Africa can be food self-sufficient - study
Jubilee Debt Campaign's new report on the Export Guarantee Department
Oil, Gold Climb as Mideast Tensions Increase; Stocks, Eni Fall (これが「ドル経済の終焉」の兆候であり、「ハイパー・スタグフレーション」襲来の要因である。)

アフガニスタンの米軍:50人に1人はロボット
A New Way Forward: Rethinking U.S. Strategy in Afghanistan "Myths & Realities"
Think Again American Decline: This time it's for real

ボリビア・中南米の今と、リビア・北アフリカ・中東の未来

ボリビア・中南米の今と、リビア・北アフリカ・中東の未来

 「われわれは降伏しない。勝利か、死か。今回の蜂起が最後ではない。われわれと戦うがよい。お前たちは、リビアが解放されるその日まで、われわれに続く幾世代もの者たちと戦うことになるだろう」

 リビアが凄惨な事態になろうとしている。左の写真はここにアップされ、アルジャジーラのサイトに転載されたものだ。日本の報道機関も速報で、カダフィの息子が「内戦の危機」を訴え、反政府デモを批判したテレビ演説を報じている。

 すでにエジプトの虐殺を越える数の犠牲者がリビアで出ている可能性がある。政府・軍が発表する内容や数をそのまま報道する商業メディアを信じてはいけない。すでに「蜂起」はリビア全土に広がり、地方の政府機関が民衆によって占拠されるまでに発展しているのだ。
 また、「ありえない」と思っていたことが起ころうとしている。これ以上事態が凄惨にならぬよう祈るしかない。

 「エジプト革命」からたった1週間あまりで、バーレーン、イエメン、イラン、リビア、モロッコ、アルジェリアと広がったアラブ・イスラム社会の独裁打倒を掲げた民衆のたたかい。これほど短期間で民衆の同時多発蜂起が起きるほどに、一触即発状態の民衆の怒りが何十年にもわたって抑圧されてきたということだろう。
 そのようなアフリカや中東を誰がつくり、誰が支えてきたのか。この地域に駐在する日本人は何を恐れ、何に脅えているのか。

 しかし、北アフリカ・中東だけではない。民衆のたたかいは太平洋を越えて、中南米においても同時多発的に展開されている。その一例が、ボリビアの先住民族・労働者・民衆のたたかいである日本が「リチウム資源開発」に「夢」を託している国である。(新聞記事の説明は後日)

 おそらく私たちは、これまで生きてきた一つの時代が終わろうとしている、その歴史的局面にたちあっている。
 非常に象徴的なことは、南米のボリビア・エクアドル・ブラジルがそうであるように、「民衆のパワー」によって成立した「左翼政権」がその政権の登場を実現した当の「民衆のパワー」によって批判され、包囲されていることだ。もっと言えば、米国や日本がそうであるように、ここ数年に政権交代があった国々において政権に対する幻滅が急速に広がり、反政府運動が高揚しているのである。
 つまり、ボリビアや中南米の今は、リビアやエジプト・中東・北アフリカの近未来の政治シーンを映し出しているのかもしれないのである。

 どのような時代が終わろうとしていて、どのような時代がはじまろうとしているのか。
 少しはマトモな議論をマトモにすることが、日本のメディアにも私たちにも問われている。
 他人事のように語れる時代は、もうとっくに終わっているのである。 

2011年2月18日金曜日

米国の「民衆のパワー」

米国の「民衆のパワー」

 日本のメディアでは報道されることがないと思えるので、ちょっとした情報として。米国はウィスコンシン州の「民衆のパワー」のレポートである。(現時時間の水曜。CNN)

・Social Media is blowing up over Wisconsin Governor's, Scott Walker's declaration to cut collective bargaining rights for public workers.(「公務員労働者の団体交渉権を廃止する」という共和党の州知事の宣言に対し、オルタナティブ・メディアが「爆発」)
1000 Appleton East High School students walked out of school yesterday to support their teachers.
40% of the 2,600 Madison School District Employees plan to stage a "sickout" today. Madison schools close.
・Wisconsin State Journal reports more than 10,000 protesters appeared before the Capitol steps yesterday. Even more appeared today, sleeping the night in and around the Capitol.(一部報道ではデモ参加者は1万5000人といわれている。極寒のマジソンで泊り込みの抗議行動を展開している!)

映像
Amazing video of Wisconsin protests 州政府の議事堂を事実上「占拠」。下のビデオでは「エジプトの民衆のように歩こう」と書かれたプラカードが見える)
Wisconsin schools call off classes as budget protests continue CNN
UWM Student Walk Out Protest(ウィスコンシン州立大学・マジソンキャンパスの学生たちの授業ボイコット。最新)

Alternetに掲載された記事
Is Wisconsin Our Egypt? 15,000 Protest Off-the-Wall Right-Wing Governor's Policies
Nationに掲載された記事(現地時間の木曜。最新)
Wisconsin Crowds Swell to 30,000; Key GOP Legislators Waver
Wisconsin Students Protest Governor's Attack on Unions

 日本のどこかの県庁、県議会が包囲され、一時的にではあれ「占拠」されたようなものである。日本の高校生が教師のストライキを支援し、デモをするなんて考えられるだろうか? 日本では考えられないこと、「ありえない」ことが世界で、米国で現実に起こっているのである。
 確かに、ウィスコンシン州立大学のメインキャンパスのあるマジソンは昔からリベラルとプログレッシブの拠点のような街であるが、こういうシーンを観るのは私も初めてだ。まさにAmazing!である。
 米国の「民衆のパワー」。そのたたかいのはじまりかもしれない。これが民主党知事の膝元で起こったなら、二大政党制そのものを揺るがす地殻変動に発展する可能性さえ無キニシモアラズとなる。

 ただし。法的身分保障や給与・待遇などにおいて、日本の正規の公務員労働者に比べれるなら遥かに「劣悪」な環境に置かれている米国の地方の公務員労働運動や巨大な組合運動に対しては、それよりもさらに法的に劣悪な労働条件、賃金体系のクビキの下にある一般の非組合系の労働運動や社会運動から、さまざまな批判があることは明記しておく必要がある。「リーマン・ショック」の際の公的資金の投入が、GM労組の救済策としても活用されたことに対する批判を思い出してみればよい。「支持すべきか、せざるべきか」「勝手にやってくれ」といった、要するに日本と同じような「構造的問題」を抱えていると理解すればわかりやすい。ただし。今回は違う。「既得権防衛」の域を超えているからである。

 ともあれ、1月のあまりにさえなかったオバマの「一般教書」と先日の「予算教書」が、州財政の破綻寸前の状況のなかでリストラ・減給・年金支給減などの攻撃を受けている地方公務員のたたかいに油を注いだことだけは確かである。火は全米に飛び火する気配が十分にあるが、米国の民衆のたたかいも長いたたかいになりそうである。

2011年2月17日木曜日

米国経済がなぜ破綻するのか

米国経済がなぜ破綻するのか

⇒「ドル経済の終焉・米国の崩落・壊れる米国の大学」より

1 
 三日前だったか、2011年度の米国の「予算教書」が公表され、一昨日新聞各紙が一斉に報道した。この問題を先に書こうと考えていたのだが、鳩山前首相の「在沖米軍・海兵隊=抑止力発言は方便」をめぐる「茶番の連鎖」があって書けなかった。
 
 たとえば、ウォール・ストリート・ジャーナル日本語版の記事をみてみよう。この記事のどこに嘘があるのか?
 末尾の「今回の予算教書では、11年度に国内総生産(GDP)比10.9%に達している財政赤字は、18年度までには同2.9%に縮小するとの見方が示された。エコノミストの多くは、GDP比3%以下の財政赤字は持続可能との見方で一致している」という表現である。

 「11年度に国内総生産(GDP)比10.9%に達している財政赤字」が「18年度までには同2.9%に縮小」するとの「見方」に何の根拠もない。また、「GDP比3%以下の財政赤字」が「持続可能」という「見方」も嘘である。ウォール・ストリート・ジャーナルが「米国は破綻する!」と言えば、すぐにでも世界恐慌が起こってしまうから、米国金融資本を支えるジャーナルは世界に嘘の情報を発信し続けるのである。

 これに対して、ワシントンポストはまだマトモな記事を書いている。
 Obama budget plan shows interest owed on national debt quadrupling in next decade(「国の債務の利子支払い額が向こう10年間で4倍に」)という記事である。これは「予算教書」が公表されてすぐに書かれたGeithner Tells Obama Debt Expense to Rise to Record(「ガイトナーがオバマに「史上空前の債務償還負担が米国経済を襲う」と警告)をベースにしたものである。資料としての「膨張する利子返済」も見ておきたい。

 踏まえておくべきポイントは、次のような記事の内容だ。
First, the nation's debt is growing faster than the economy. Second, interest rates are rising. Over the next decade, net interest payments will amount to nearly 80 percent of the debt added, an indication of how past borrowing is forcing the country deeper into debt.
・The phenomenon is a bit like running up the down escalator.

・"The scary scenario ---- is an incident of capital flight, where investors lose confidence in the U.S., causing interest rates to rise precipitously and pushing the budget deficit even further into the red,"
・"We are in a self-reinforcing, vicious cycle," "There's no sugar daddy out there for us."

 国の借金が経済よりも成長しており、利率が上がっている。借金の利子返済額が借りた借金総額の八割を占め、国をさらなる借金地獄に叩き込んでゆく。それは下りてくるエスカレーターを駆け上ろうとするようなもの。しかし、上の階(財政均衡)には上れない。ずっとエスカレータを下から上に、車輪の中に置かれたコマネズミのように走り続けるしかない。そしていつか息絶えてしまう・・・。
 恐ろしいシナリオは、その間に起こるかもしれない、海外から米国に投資された「資本逃亡(引き上げ)」だ。投資家が米国経済の回復やドルへの信用を落とせばそうなるし、そうなるとそれを回避するための金利の上昇を招き、さらにそれが財政崩壊の決壊点、デフォルト寸前にまで追い詰めてゆく。見かけの上では、今はまだ大丈夫そうにみえる。しかしこの現象が水面下ではすでに始まっているのである。

 もちろん「ドル経済の終焉、米国の崩落」と言っても、ドルが消滅したり米国経済が完璧に崩壊するわけではない。その影響をモロに受けるのは、米国国内ではせいぜい1億人くらい、総人口の3割「程度」のものだろうか。大恐慌のときでさえ、失業に追いやられたのは全労働者の3割あったかなかったか、「その程度」のことだった。むしろ問題は、すでに失業率が4割、5割を超えるような「低開発国」や「重債務国」、軍事独裁国家に生きる人々への影響、グローバルな民衆の生活への影響である(これについては、機会をみつけてまた書くことにしたい)。

 いずれにせよ、「悪(魔の)循環」vicious cycleに米国は叩き込まれている。それと同じ構造にEUも日本が置かれ、どの国も米国の破綻の救世主sugar daddyにはなれない。「財政緊縮」で増税と「受益者負担」を強化し、互いに「協調介入」しながら「壊れる国」のドミノ化を未然に防止することくらいしかできないのだから。そのためにEUはIMFのEU版も創設した。

 で、それで「壊れる国」のドミノ化を防ぐことができるのか? 米国発の再度の大地震を防ぐことができるのか?
 政治家や財務・日銀官僚、メディアの嘘に騙されてはいけない。貧しき者は「戦略的防衛体制」に入りながら、たたかうしかないのである。

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4月
米大統領、330兆円の赤字削減表明 今後12年で
 オバマ米大統領は13日、米ワシントン市内で演説し、今後12年で財政赤字を4兆ドル(約330兆円)削減すると表明した。国防費の節減や高額所得者への増税などをして、大規模な財政赤字削減に取り組む。  オバマ大統領は演説で、「我々は歳入の範囲内で生活し、財政赤字を削減し、債務残高を減らしていく道に戻らなければならない」と強調した。  具体的には、今後12年で、
(1)国防費のさらなる節約や社会保障費の削減など大幅な歳出削減で2兆ドル
(2)債務の利払い費の節減で1兆ドル
(3)富裕層の所得税減税の廃止などの税制改革で1兆ドル、を削るとした。
 米国の財政赤字は今の2011会計年度に史上最悪の1.6兆ドル(今年2月時点の予測)に達する見通し。その場合、対国内総生産(GDP)の比率は10.9%になる。オバマ大統領は今回の削減計画で、対GDP比を15年に2.5%に下げ、10年後には2%近くまで引き下げたいという。  これから12会計年度(11年10月~12年9月)予算の策定に向けた議論が始まる。野党・共和党との間で本格的な財政再建論議が交わされそうだ。(朝日・ワシントン=尾形聡彦)

米の財政赤字69兆円 11会計年度、上半期
 米財務省が十二日発表した二〇一一会計年度(一〇年十月~一一年九月)の上半期の財政収支は、赤字額が前年同期比15・7%増の八千二百九十四億一千万ドル(約六十九兆円)だった。 上半期の赤字額として過去最悪の高水準となった。
 歳出は国防費、社会保障費、国債の利払いなどがかさみ前年同期比10・7%増の一兆八千四百九十三億六百万ドルだった。歳入は所得税が増えた一方、法人税の税収が減少し6・9%増の一兆百九十八億九千六百万ドル。歳出の伸びを下回った。 同時に発表した三月の財政収支は、前年同月比187・8%増の千八百八十一億五千三百万ドルの赤字。単月の赤字は三十カ月連続で、過去最長を更新した。 オバマ大統領は十三日、財政赤字縮小に向けた歳出削減方針について演説する予定だ。【ワシントン=共同】

米、政府閉鎖を回避 大幅な歳出削減で合意
 米国で、4月9日午前0時(日本時間同日午後1時)に予算措置の期限が切れて「政府閉鎖」となる可能性があった問題で、与野党は、大幅な歳出削減と歳出削減法案をまとめあげる数日間はつなぎの予算措置を講じることで合意した。オバマ大統領も合意を歓迎した。 米オバマ政権・民主党と野党・共和党の間では、期限切れを数時間後に控えた8日夜、大詰めの折衝が続いた。米ホワイトハウス高官は8日夜、朝日新聞に対し、「(政府閉鎖を回避するための)合意ができることに希望を持っている。合意は近いがまだそこに至っていない」と語っていた。
 オバマ米大統領は当初、2011会計年度の政策経費として1兆1283億ドルを提案。米議会は昨年末、それより約410億ドル少ない水準で暫定予算を設定した。この暫定予算の水準から、さらにどこまで歳出を削減するかが与野党間で攻防になっていた。  与野党は7日夜から8日早朝にかけての交渉で、さらなる削減幅を380億ドルとすることで合意しかけたが、女性のがん検診向け助成3億ドルの扱いを巡って意見が対立し、合意に至らなかった。共和党側は助成費の一部が中絶費用にも転用されているとして、予算自体の削減を要求。民主党側は「がん検診を巡って政府閉鎖に陥れば、脆弱(ぜいじゃく)な米経済は勢いを失うことになる」と批判していた。
 仮に政府閉鎖の事態となれば、米国の国立公園やスミソニアン博物館は閉鎖される。連邦職員は、緊急対応など一部の機能を除いて勤務できなくなる。ただ、米原子力規制委員会(NRC)職員による日本の原発問題対処への支援や、米軍による復興支援は継続する予定。一方、日本での米国大使館によるビザ発給は緊急対応のものに限られ、通常のパスポートやビザ発給の手続きは行われない。 (朝日)

2011年2月16日水曜日

「抑止力」は「方便」以外の何なのか?---戦後政治と戦後外交の欺瞞と虚構から目覚める時

「抑止力」は「方便」以外の何なのか?---戦後政治と戦後外交の欺瞞と虚構から目覚める時


 鳩山前首相が去年、在沖米軍が「抑止力」として重要と言ったのは「方便」だったと本音をもらし、この発言に対し社民党党首が「私は方便でクビになったのか」と言い、さらに防衛大臣が「衝撃」を受けたという。何という茶番の連鎖だろう。
 毎度の事とはいえ、もういい加減に日本の政治家は、こういう低次元のアレヤコレヤによって私たちの貴重な時間を潰し、税金を浪費し、ウンザリした気分にさせるのはやめてもらいたいものだ。もっと、子どもたちの想像力を豊かにし、少しでも私たちの知性を刺激するようなパフォーマンスができないものか。読者はそう思わないだろうか。

 在沖米軍を「抑止力」とすることが単なる「方便」に過ぎないのは、みんな見抜いている。海兵隊や在沖米軍のみではない。在日米軍全体がそうであり、在韓米軍もそうである。しかし、その「方便」を永遠にくり返さなければ、在日米軍を永遠に駐留させておく口実がつくれない。「日米同盟という欺瞞」や「日米安保という虚構」は、米軍が外部(どこ?)から日本が武力攻撃を受けないようにするための「抑止力」という、ただその一点のみにおいて成り立っているのだから。

 だから、これを「方便」と言ってしまえば、すべてが崩壊してしまう。けれども、そんなことは子どもだって知っている。産経・読売新聞の論説委員を始め、いまどき「右翼」だって米軍が「抑止力」だなんて本気で考えている者はいないだろう。
 一度、日米の「2+2」に在日米軍司令官、自衛隊統合幕僚長を加え、在日米軍が何に対する「抑止力」として存在するのか、全世界に公開されたパブリック・フォーラムを開催すべきである。日本の政治家が何を言った/言わないなどアレコレ問題にしても、まったく意味がない。ただ時間と税金を無駄にするだけである。


 「北方領土」問題にしても、「尖閣諸島」を含めた琉球問題にしても、私たちが相手にしている国はすべて国連安保理常任理事国である。朝鮮民主主義人民共和国も国連加盟国だ。いったいどこの国が日本に核攻撃や武力攻撃をしかけるというのか。
 思い起こして欲しい。去年の「北の脅威」論の根拠とされたアレヤコレヤは、いったいどうなったのか。去年と同じように、これまでも安保を無期限延長し、在日米軍を無期限駐留させるために「北の脅威」や「中国の脅威」が扇動されてきた。いつになったら私たちはそのことに気づくのか。

 「日米関係を重視する」と言うのはよい。しかしそれを言うにしても、いったん安保をいつかは解消する、米軍をいつかは撤退させる、そのケリをつけてからのことだ。
 戦勝国というのは、一度侵略し、軍事基地を作り、駐兵した国からは、絶対に無条件では撤退しない。このことを大前提にして、米国という国、在沖・在日米軍のことを考える必要がある。それは「北方領土」を「実効支配」してきたロシアについても言えることだ。

 米国はロシアが「北方領土」を「実効支配」することを容認し、ロシアは米国が沖縄を「軍事植民地」化し、日本・韓国に基地を持ち、駐留することを容認してきた。中国についても然り。そしてこれら三国は、「国際の平和と安全」を「維持」する国連の最高権力機関たる安保理の常任理事国なのだ。国連に常任理事国体制が続く限り、これら三国は永遠に非公式で密約を交わしながら平和共存し、「国際の平和と安全」のために「協調」し続けるのである。

 さらに残りの常任理事国たる英国にフランスは、日本政府が最大の「脅威」と言う北朝鮮と国交があり、外交関係も持っている。ドイツはと言えば、日本が国交断絶し、経済制裁を強化するなか、北朝鮮に対する「経済協力」を強化してきた。外務省の無策ぶりと対比するなら、北朝鮮の外務省の方がよほど国際法の限界、国連加盟国としての制約をわきまえつつ、しかし体制の生き残りをかけて戦略的外交を最大限に展開してきた、と言えるだろう。

 これに対し、日本という国の政権与党・自民党、外務省という官僚機構、未解体の財閥は、戦後の世界秩序形成の中で日本の針路をめぐる「国政の主権者」の意思を顧みず、「ヌエ」のようにただ「パックス・アメリカーナ」に寄生し、国際社会の中で「経済大国」としての地歩を築くことしか考えてこなかった。
 1970年の安保の「自動延長」の時点において、読売新聞の世論調査でさえ、「国民」の過半数は「安保の段階的解消、米軍の段階的撤退」を主張していたのである。その声を封殺され、壊れたボイス・レコーダーのような政治家の口から「極東の平和と安全」「日本の平和と安全」のために安保と在日米軍が「抑止力」として欠かせない、こんなナンセンスを40年以上にわたって私たちは聞かされ続けてきたのである。


 在日米軍問題について言えば、戦勝国・米国の本音に対し、敗戦国・日本を代表する政府・外務省が、①国際条約としての安保条約の内容に即しながら、在日米軍の無期限駐留の論理的無根拠性を理路整然と米国に対置しつつ、②国連総会や安保理の場で無期限駐留の不当性を問題化しようとしてこなかったことが致命的である。そればかりか、歴史的事実が教えるのは、日本政府・外務省が、系統的・計画的、すなわち段階的な米軍の撤退をこれまで一度たりともまともに検討したことがない、ということだ。

 安保条約が「自動延長」体制に突入した1970年から数年をかけて、あるいは冷戦が崩壊した1990年代初頭から数年をかけて、10年、20年という長期のスパンで外務省がそうした戦略構想をまとめ、広く議論を興そうとしたなら、こんなことにはならなかったはずである。すべてが密約で処理されてきたのである。今からでも遅くはない。その議論を始めるべきだ、というのが私の主張である。

 「北方領土」問題もまったく同じである。敗戦国家としての日本が1945年以前に戦争し、侵略した国家に「戦勝国」として何を要求し、何をしてきたかを、まず想起することが重要である。「米国が沖縄を取るなら、北方領土を取る」と旧ソ連が米国の合意の下で兵を動かしたことを私たちは認識しておく必要がある。私たちは侵略し、完敗した。敗戦国が戦勝国に実効支配された領土を、「過去の国際条約違反だ。日本の固有の領土であるから返還せよ」と言ってケリがつくなら、パレスチナ問題など、イスラエルの占領政策など、とっくの昔にケリがついているではないか。

 事の核心は、「四島返還か、それとも二島返還か」にあるのではない。①1960年の「安保改定」が、旧ソ連の四島全域の実効支配の口実を与えると同時に、1972年に「返還」されるその後の沖縄を切り捨てたこと、②またそれと抱き合わせとなって、米ソ間の裏取引と日米間の密約の下で「北方領土」問題がはらんでいるリアル・ポリティクスが私たちの目からそらされてきたこと、③そのことが何十年間にもわたって放置されてきたことにある。

 これまで私たちは、「北方領土」の日ロ共同開発、ロシアへの経済協力を進めるという以外に、何か具体的な全面返還、あるいは二島返還⇒段階的完全返還に向けた政府・外務省、自民党・民主党の「方針」を聞いたことがあっただろうか? 国境・領土問題をいかなる意味においても「紛争」の火種にしない、そのことを日ロ間の合意として外交文書化した上で、国際法と二国間条約の歴史に基づきながら、返還の正当性を国際的にキャンペーンする日本政府・外務省、政権与党の姿を、これまで私たちは一度でも見たことがあっただろうか?

 こうした政府・外務省、政権与党としての主張を交渉国に公式に突きつけた上で、①国際法を遵守し、②自国が交わした国際条約に基づいて二国間関係や領土・基地問題を解決するという国際的責任を持ち、③しかも「国際の平和と安全」に対しても責任を持つ安保理常任理事国として、米国やロシアが、さらには中国が日本、また世界に対して何をどう答えるか。すべての外交交渉は、そこから始まるのである。
 日本の戦後政治と戦後外交、それを報じるメディアの言説は、私たちを愚弄する欺瞞と虚構で塗り固められてきたのである。


 どこの国でもそうだが、こうした国家間の領土問題において、もっとも忘れられ、切り捨てられてきたのがその領土に生きてきた人々(マイノリティ)であり、多くの場合、先住民族である。これらの人々の尊厳、国際法的に認められた自治や自決権。そして剥奪されたそれらの回復。

 先週の「北方領土の日」にあたり、アイヌの人々が北海道や東京で集まりを持ち、そのことを告発した。また、今週の土曜には、アイヌ・琉球・在日の人々が日本における人種・民族差別の撤廃を求めて東京で集まりを持とうとしている。さらに4月には明治大学で企画が予定されている。

 もういい加減、私たちは日本の戦後政治と戦後外交の欺瞞と虚構から目覚める時を迎えているのではないか。今年は、そのための絶好の機会を与えてくれそうだ。今年を、そういう年にしなければいけない。

2011年2月15日火曜日

「鎖に縛られたまま誕生したデモクラシー」---「エジプト革命」へのナオミ・クラインの警鐘

「鎖に縛られたまま誕生したデモクラシー」---「エジプト革命」へのナオミ・クラインの警鐘

 昨日、ナオミ・クラインが The Shock Doctrineに収録されたDEMOCRACY BORN IN CHAINS: SOUTH AFRICA’S CONSTRICTED FREEDOMを公開した。彼女は先週までダカールで開催されていた世界社会フォーラムに参加し、その間ツイッターで情報を配信しており、時折私も覗いていた。

 ナオミ・クラインがこの章を公開したのは、「エジプト革命」を担った者たちやそれに熱い視線を注いでいた者たちへの警鐘だと私は捉えている。今回の革命を祝福する。しかし課題は山積しているのだと。それをアパルトヘイトを解体し、ANCへの権力移行後10年余を経た南アのルポを転載することを通じ、彼女は伝えようとしたのだと。

 ちょっと情報は古いが、以下のような統計的資料は、アパルトヘイトを形だけは解体した南アの「革命」が、黒人の解放・生活向上には何もつながらなかった現実をとてもリアルに浮き彫りにしている。

・Since 1994, the year the ANC took power, the number of people living on less than $1 a day has doubled, from 2 million to 4 million in 2006.
・Between 1991 and 2002, the unemployment rate for black South Africans more than doubled, from 23 percent to 48 percent.
・Of South Africa’s 35 million black citizens, only five thousand earn more than $60,000 a year. The number of whites in that income bracket is twenty times higher, and many earn far more than that amount.
・The ANC government has built 1.8 million homes, but in the meantime 2 million people have lost their homes.
・Close to 1 million people have been evicted from farms in the first decade of democracy.
・Such evictions have meant that the number of shack dwellers has grown by 50 percent. In 2006, more than one in four South Africans lived in shacks located in informal shantytowns, many without running water or electricity.

 このような南アの現実は、「革命」10周年を迎えた7年前にもさまざまな媒体で流布されていた。状況は今日、さらに悪化しているだろう。政権が移行しても、経済運営の権限はいっさい移譲されなかった。しかもアパルトヘイト体制下の弾圧・拷問の犠牲者となった人々への「真相究明委員会」を通じた「和解」と補償のための財政支出により、国家財政が逼迫する。ANC政府は、国際金融資本や旧体制を牛耳っていた白人アフリカーナの権力者が言うがままの「民営化」路線を受け入れ、腐敗を深めてゆく。

 すべての背景には、南アの「デモクラシー」そのものが、奴隷制と植民地主義の遺制=鉄鎖には何も手をつけることができず、それに縛られたまま誕生せざるをえなかったという悲しい現実がある。(だとしても、ANC指導部の官僚主義・権威主義・腐敗とモラルハザードは何も免罪されないが)。

 日給2ドルで働くエジプトの労働者と、その資産総額が7、8兆円(もっと?)の独裁者(失踪?病気?)。
 南アの現在の中に映し出されているその鉄鎖を、エジプトやアフリカ大陸の未来を縛る鉄鎖にしてはならない、ナオミ・クラインはそう言いたいのである。
 軍の動きを決めるのは、その背後に存在する得体の知れない〈権力〉なのだ。おそらくそのことを指導者無き「エジプト革命」の主役たちは見据えているだろう。

2011年2月12日土曜日

エジプトからパレスチナへ、そして・・・

エジプトからパレスチナへ、そして・・・


 ムバラクが辞任した。
 この18日間を「革命」と民衆は呼んでいる。この間もそうだったが、これからのことについても軍の動きが非常に気になっている。だから、考え込んでしまうところがどうしても残ってしまうのだが、アルジャジーラのインタビューに応えていた若い人々の話を聞いて、そういう感じ方はやはり間違っているのだな、と思った。

 ある女性はこのように話していた。とにかく今夜は祝うのだと。一晩明けて、明日からどうするか、帰るか残るかを考える。軍との関係についても、私たちが何を要求としてまとめ、それに軍がどう返答するかによって決めるのだと。何もかもが、ムバラクが辞めてから始まるのだと。
 その通りなのだろう、と思った。すべてが「ありえない」とそれまでは思っていたことから始まり、「ありえない」と思っていたことがたった18日間で実現したのである。

 「革命」という政治的定義があらかじめあるのではない。すべての定義は起こったことの事後解釈にすぎないものだ。そういう定義や「理論」、解釈に沿って進む/進まないによってアレコレ評価したり、否定的に考えることは、はやり今回の出来事がいかに革命的なことであるかを理解できない外部の人間の思い込みや杞憂にすぎない、ということだろう。「ナルホドナ」と思った。

 エジプトの「民衆のパワー」。連帯感、結束力、そのエネルギー。そして自分たちがここで死んだとしても、何が何でもムバラクはもう認めない。何があっても権力の座から引き摺り下ろすまでたたかう。その気迫。「民族的」決意。圧倒的だった。

 1980年代後半から90年代始めの旧ソ連・東欧圏の崩壊と「民主化」以来の体験だ。「9.11」以後この10年、対テロ戦争という「戦争」が自分の思考を深く規定してきたことに気づかされた。対テロ戦争を乗り越え、国家と社会を根本から変えうる民衆のパワーとエネルギーに、どこか懐疑的になっていた自分を思い知らされた気がした。

 米国が、オバマがどう出るか、軍がどう出るかを事態の帰趨の決定要因であるかのようにどこかで考えていた自分がいた。ずっとどこか懐疑的で、醒めた目でみていた自分がいた。「ありえない」と思っていたことが、エジプトで現実に「ありえた」ことの意味、そもそもの始まりの革命性を最初から私は理解できていなかったのかもしれない。
 「事態は流動的」と書いた。しかし流動的でない事態、歴史などない。何でも起こりうる。歴史を生きるとはそういうことであり、歴史とは解釈するものではなく、つくるものなのだ。まざまざと見せつけられた気がした。


 次に進む前に、拙著『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の書評を紹介させていただきたい。 一昨日、卞宰洙さんが書かれ、朝鮮新報に掲載されたものである。ロシア文学、朝鮮文学・詩の研究者である卞宰洙さんに書評を書いていただいたこと、そのこと自体をとても光栄に思う。

 「民衆のパワー」は宗教・民族・国境を、いずれは越えるものであることを信じたい。それは時の権力者や軍が押さえ込もうとしても、いずれは解き放たれる。「エジプト革命」はそのことを教えてくれた。2011年2月11日は、チュニジアとエジプトで解き放たれた「民衆のパワー」が「新しい中東」をつくり、それが「新しいシルクロード」をつくり、新しいアジア、中国、朝鮮半島をつくる歴史的転換点となるかもしれない。そしてその「新しい朝鮮半島」のためには「日米同盟という欺瞞」と「日米安保という虚構」に目覚めた「新しい日本」の出現が欠かせない。

 「道は長く険しい ここから見れば なだらかな坂みたいだが---」
 ロシアの詩人、マヤコフスキーの詩の一節であったと記憶するが、「道」はそれでも続いている。楽観は禁物かもしれない。が、悲観することもない。


 The Electronic Intifada (EI)。私が最も信頼している、英語で読めるパレスチナの情報サイトである。
 このEIに、先月27日、Palestinian students claim right "to participate in shaping of our destiny" が掲載された。パレスチナ学生総連合が、ロンドンのPLOの事務所前で座り込みをし、来年1月に「パレスチナ国民会議」の「直接選挙」を行うことを要求したのである。

 この間のパレスチナ情勢については、ネット上でもさまざまな情報を得ることができるので、それらを参照してほしい。ここで問題にしたいのは、これからのパレスチナ/イスラエル問題の行方を大きく左右するであろう学生・青年たちの運動についてである。
 上の要望文において、ハマス・ファタ・自治政府指導部間の「内ゲバ」にウンザリしきっている学生たちは、分裂を超えて統一したプラットフォームと「戦略」を確定する、難民、移民、亡命者、留学生などをも含めた民主的総選挙の実施を要求している。チュニジアでもエジプトでも「革命」の主役を果したのは青年・学生たちだった。そしてパレスチナでも、それが始まろうとしている。
 イスラエルは、これまでのような暴力的占領政策や入植活動を継続することはできなくなるにちがいない。「ありえない」と思っていたことが、パレスチナでもイスラエルでも本当に起きるかもしれない。

革命は、静かにではあるが確実に、もう始まっているようだ。時代は変わっている。
People Get Ready---Ziggy Marley
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4月
エジプト軍批判のブロガーに有罪 禁錮3年、軍事法廷
 エジプトの軍事法廷は10日、インターネット上でエジプト軍を侮辱したとして、ブロガーの男性に対し、禁錮3年の有罪判決を言い渡した。国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」(RSF)が11日明らかにした。弁護士は付かなかったという。 2月11日のムバラク政権崩壊後、暫定統治に当たる軍は国民の信頼を得ているが、RSFは表現の自由を規制する動きだと批判している。
 AP通信によると、この男性は「人々と軍は一致協力などしていなかった」と題するブログを開き、旧ムバラク政権を長年支えてきた軍の姿勢を疑問視。また交流サイト「フェイスブック」にも軍の権力乱用ぶりを伝える内容を掲載するなどしたとして、3月28日に拘束された。 軍幹部は地元テレビで「意見表明には敬意が必要で、侮辱や中傷があってはならない」と主張した。【カイロ共同】

エジプト軍がデモ隊強制排除、2人死亡 異例の実力行使
 エジプト軍は9日未明、カイロ中心部のタハリール広場に集まっていたデモ隊を強制排除した。ロイター通信は病院関係者の情報として、2人が死亡したと伝えた。軍が実力行使に出るのは異例で、2月のムバラク政権崩壊後、全権を握った軍最高評議会と市民の間で緊張が高まる可能性がある。 広場では8日、ムバラク前大統領と一族の訴追を求める大規模なデモがあった。同通信などによると、9日午前3時ごろ、約300人の兵士が広場を囲み、威嚇射撃などで残っていたデモ参加者の排除に乗り出した。軍側は同通信に対し、実弾の使用を否定している。(朝日・カイロ=松井健)

2011年2月11日金曜日

人道的帝国主義とは何か---「保護する責任」と二一世紀の新世界秩序

人道的帝国主義とは何か---「保護する責任」と二一世紀の新世界秩序

⇒「保護する責任」にNO!という責任--人道的介入と「人道的帝国主義」より

 1月のハイチ大地震の1周年にあたり、ハイチや「低開発国」「重債務国」と呼ばれている国々の〈脱植民地化〉のプロセスに対して、巨大な国際人道・開発NGOが果している役割を書こうと考えていた。いわゆるポスト・コロニアル状況と国際NGOとの関係性の問題である。
 非常に大きなテーマなのだが、この問題を考えるヒントを与えてくれる言葉がある。「NGO共和国」という表現がそれである。


NGO共和国

 ハイチがNGO共和国になったという国際人道・開発NGOに対する批判がある。
 たとえば、アルジャジーラが報道した、Haiti 'a republic of NGOs' を観てほしい。記事にはこのようなことが書かれている。A report from Oxfam, one of the major NGOs working in Haiti admitted that international groups often exclude the state in their plans and should do more to work with the government.

 オクスファムは、まだこの事実を認めているだけマシだと私は考えている。圧倒的多数の欧米のNGOは、そして一部の日本のNGOも、NGOというよりは「サービス・デリバリー団体」化し、援助対象国の中央・地方の政府・行政機構、また現地の住民組織(NGOではない)や民衆運動体をバイパスして、一方的な「援助の押し売り」をしている現実がある。なぜか。「人道緊急援助」というのは、今日において、それ自体が巨大なグローバル産業になっているからである。こういう援助産業が、欧米の植民地支配の遺制と遺産を清算し、「自立」しようとしているその最中に海外から「ベイシック・ニーズ」の供給者として次から次に入ってきたらどうなるか? 

 ジャパン・プラットフォームなどは、活動展開の規模で言えば、チッポケな存在でしかない。しかし、やっていること、その結果がもたらしていることは、「NGO共和国」を世界各地につくっている欧米の巨大開発・人道NGOと同じである。しかも問題なのはサイトを見ても、そのことを捉え返そうとする気配が感じられないことだ。捉え返すどころか、年末まで募金とプロジェクトを延長するという。

 「震災からの復旧が遅れているハイチでは、ユニセフが水衛生分野で2011年末まで、IFRCがシェルターで2011年半ばから2011年末まで活動の継続を表明するなど、国際機関は緊急段階の支援が長期に必要なことで一致している。かかる状況下、JPFとして緊急対応期間を2011年末まで延長することが適切だと判断した」?

 まったくのデタラメである。復旧が遅れているのは、国連機関も国際NGOも、互いに競合しあうだけで、全世界から集めた寄付・税金・物品を、効率的・合理的に、現地の「ニーズ」に合わせて配分することをしないからだ。NGO間の何のコーディネーションもない。いわばすべてがバラバラで、「クライアント」の争奪戦・陣地戦を展開し、ハイチの人々を国連機関とNGOの管理・統制下に置き、実態的に支配/統治してしまっているのである。
 60ヶ国以上の国から、1万組織以上の「NGO」が、カリブの「最貧国」ハイチにハエのように群がり、「卵」を産み、寄生することによって実効支配している。ハイチにおいて、国際人道・開発NGOは脱植民地化の阻害物にしかなっていない。現代世界の最もマージナルな国々の、最もマージナルな人々にとって、今では「アラブの王国」を含む「援助大国」・国連・国際NGOは、文字通り「エイリアン」な存在なのである。

 税金を使っている組織体として、JPFを構成するNGOユニットは、たとえばハイチ、あるいはアフガニスタンやイラクにおいて自らが果している、果たしてしまっている役割を、一度きちんと総括し、レポートを公表すべきである。


 「紛争予防」「人間の安全保障」「平和構築」の三位一体神話の解体

 どんなに「貧しい」国だとしても、人々がそこで生きている限り、さまざまな社会的組織体がある。NGOの役割はそれらの社会的組織体を現地の「カウンターパート」としてNGO化することではない。またその社会固有の活動や運動を「プロジェクト」化することもでもない。これらは、NGOとして絶対にしてはならない禁止則である。
 戦後という時間幅で見ると、欧米の「チャリティ」系NGOが、旧植民地宗主国が軍事独裁国家を構築するのを横目でやり過ごしながら、世界各地でこの禁止則を犯してきたことに気づかされる。援助国が軍事独裁を支え、武器輸出のマーケットとし、NGOがその国の内部から社会的組織体の成長を阻害してしまうハイチのような国が「破綻国家」「脆弱国家」として構造的に「自立」できなくなってしまうのは必然である。国家として、また社会として自立する条件を、援助する側が奪ってきたのであるから。

 次から次に「ホットスポット」を目指して組織と財政基盤の拡大をはかるNGOは、目的が手段化し、本来の主役が隷属化し、黒子(くろこ)が主役になってしまっていることを反省しようとしない。活動そのものがビジネス化するにつれて、その傾向はひどくなる一方になる。

2011年2月9日水曜日

在沖米軍のヘリパッド建設問題

在沖米軍のヘリパッド建設問題

 このブログの訪問者の中で、在沖米軍のヘリパッド建設をめぐる緊迫した現地の状況をご存知ない人は琉球朝日放送のこの映像をみていただきたい。また右のサイト下にある記事と映像にも目を通していただきたい。そして友人や知人に情報を広めていただくことを要請したい。

2011年2月7日月曜日

ドル経済の終焉・米国の崩落・壊れる米国の大学

ドル経済の終焉・米国の崩落・壊れる米国の大学


 今年は、2001年の「9.11」から10周年になる。つまり、対テロ戦争勃発10周年の年だ。
 米国の繁栄の象徴でもあった世界貿易センターは、旅客機の突撃によって崩落した。少なくともそういうことになっているし、私たちもそういうことにしている。その米国が、「9.11」から10年を経て、ドル経済の終焉と自らの経済・金融・財政政策の失敗により崩落しようとしている。米国の大学が次から次に壊れてゆくのは、そのことの表れでしかない。

 ドル経済の終焉と米国の崩落に関しては、いまその筋の専門家たちにとっての問いは、これらが「本当に起こるのかどうか」にあるのではない。「いつ起こるのか、どれくらいの打撃を世界経済にもたらすか、打撃を小さくするにはどうすればよいか」にすでに移っている。詳しいことを知りたい人は、証券会社の人間か米国経済の専門家にでも聞いたり、専門書に自分で目を通して欲しい。

 世界のドル経済体制は、近い内に必ずや終焉を迎える。すでに世銀、EU、中国、OPECに日本は「ポスト・ドル体制」をどうするのかを真剣に議論し始めている。しかし、円はもとよりユーロ、元、「オイルマネー」もドルに代わって、単一の通貨として世界経済と貿易を支える力はない。だから米国の国債を買い、為替相場の変動に介入し、米国を崩落させないために「協調」してきたのである。世界金融・信用恐慌がいくら起こっても、1930年代のように恐慌⇒ブロック化⇒ブロック相互の戦争(帝国主義間戦争)へとは「発展」しようがない。

 しかし「協調介入によるドル体制と変動為替相場体制の「安定」の偽装」にも、もう限界がきている。というより、10年前にブッシュが登場した時点ですでに限界を超えていたというのに、ブッシュとグリーンスパンが無策であったことの帰結が3年前の「リーマンショック」となって噴火したのである。
 米国や世界の投資・投機家たちはドルをこぞって売り、手放している。米国から資本を引き上げている。世界各地の観光スポットでは、ドルが歓迎されなくなるのを通り越して、ドルではモノが買えないところが増えている。米国国内でさえ、ドル以外のユーロや円が好まれる店や、連邦政府が発行するドルとは別の「地域通貨」での取り引き活動が登場し、広がっている。

 ともあれ、米国と世界は「リーマンショック」をはるかに凌ぐ大噴火を近い内に目撃することになる。ちょうど1929年に始まる世界大恐慌と同様に、「大地震が来た!」と思っていたものが前兆に過ぎず、本格的な打撃は1930年代に入って直後に来たように。今年の後半から来年が、かなりヤバイ。石油・穀物関連の市場価格の高騰、そこから波状的に拡大する物価全般の高騰。「気象変動」がそれに追い討ちをかける・・・。


 米国の大学が壊れているのは、その規模の大きさを別にすれば、基本的に日本、いや世界中で起こっている現象とまったく同じことが要因になっている。全米46州がデフォルト(債務不履行)宣言寸前の財政状況にある中で、州立大学の「運営費交付金」の大幅カット。連邦政府自体がデフォルト寸前で、州への財政配分を大幅にカットしようとしているのであるから、政府はあてにならない。その結果、授業料が高騰し、正規の教職員が合理化され、非常勤の教職員が膨張している。

 私立大学はますます金持ちしか行けない大学となり、昔はその「セーフティネット」とされた州立大学もそうなりつつある。リーマンショック以降、奨学金の利子の返済ができない学生たちが自己破産し、大学を中退し、ホームレス化するという事態が起こったが、それを克服・解決できない間に米国は、さらに破壊力のある大地震に見舞われようとしている。

 プエルトリコ、あるいはメキシコ、中米などのヒスパニック系移民がテキサスと並んで多いカリフォルニアの州立大学システム(バークレーやLAなど)で学生の運動が先鋭化したのは、以上のようなことが背景にあってのことだった。

2011/2/10


 プエルトリコの「大学教授協会」が学生たちの運動と当局の弾圧に抗議して、一日ストをした(現地時間の水曜)。800ドルの学費値上げに反対した学生のストライキで少なくとも八名の逮捕者が出たとのことだ。⇒ワシントンポストに転載されたAP通信の記事。およそストなどという経験を持たず、闘うことをしない、どこかの国の大学教授よりはよほどリッパである。
 米国の州立大学システムの財政事情については、1月24日のニューヨークタイムズが報じている。注目したいのは、次のような記事の内容だ。

・“The whole thing is kind of scary, for somebody like me who’s paying for college myself,” said Ms. Murphy, who plans to be a teacher. “I turn 20 tomorrow, I’m already in debt, and if tuition goes up again next year, I’ll be in an even worse position.”
・In California, where tuition has been raised by 30 percent in the last two years — and where out-of-state tuition now tops $50,000, about the same as an elite private university — the governor has proposed cutting state support for the University of California by $500 million for the next fiscal year.
・In state after state, tuition and class size are rising, jobs are being eliminated, maintenance is being deferred and the number of nonresident students, who pay higher tuition, is increasing.
・At the University of South Carolina, budget cuts have already pushed tuition to $9,786, more than double what it was a decade ago and well above both the national and regional averages.

 いずれ近いうちに、日本の国公立大学もかならず米国の州立大学と同じような状況に叩き込まれることになる。
 今年から来年にかけて日本列島を襲撃するであろう、ガソリン・灯油・石油関連商品・光熱費・食料品等々の値上げ、新消費税の導入などの大攻勢が「壊れる大学」現象をより一層加速させ、深刻なものにするだろう。これに伴い労働強化と口減らしが起こるだろう。今春季から日本は、一部の儲ける業種は内部留保を拡大させつつ「好況」を迎えつつも、全体としてはデフレ経済からハイパー・スタグフレーション(不況下のインフレ)に徐々に突入してゆくだろう。

 だから、派遣労働者やフリーターの人々は「戦略的防衛体制」に入る必要がある。サラ金には絶対に手を出さぬこと、少しでも貯金と必需品の備蓄をすること、今年に契約解除・解雇がありうることを念頭に置いておくこと、身体と精神の健康を保ち、医者や歯医者にかからないようにすること、「いざ」というときに互いに助け合うネットワークを広げること、未組織労働者を支援する最寄の団体を調べておくこと・・・。

 長いたたかいになりそうだ。 

2011年2月4日金曜日

エジプトのこと、「壊れる米国の大学」のこと、世界社会フォーラム2011のことなど

エジプトのこと、「壊れる米国の大学」のこと、世界社会フォーラム2011のことなど

 この二週間ほど、ブログの読者と同じように、チュニジアに始まり北アフリカ、アラビア半島からさらに世界中に拡大したアラブ・イスラム社会の「民主化」のたたかいに釘付けになっていた。この週末、いや明日にもエジプトのムバラク独裁政権が崩壊するかもしれない。歴史的な出来事に、まさにリアルタイムで立ち会うために、Al Jazeera(英語)のLive Streamでしばらく事態の推移を見守りたいと思う。「壊れる米国の大学」のことや世界社会フォーラム2011のことなどは、順次追って報告したい。

2011/2/7

エジプトのこと

 週末にもムバラクが辞任し、独裁政権が崩壊するかもしれないという予測は裏切られたようだ。報道によれば、新たに副大統領となったスレイマンと反政府側が昨日初めて交渉のテーブルにつき、政府側が大幅な「譲歩」を提案したという。憲法改正、大統領の任期制限、逮捕者の釈放、非常事態法の撤廃なども含まれている。しかし、民衆が要求しているムバラク政権の即時退陣のみは含まれていない。

 反政府側の「穏健派」の取り込みと懐柔、運動の分断・統制がミエミエの「譲歩」は、反政府側にとっては原則的に受け入れられる代物ではない。何をどうするにしても、すべてはムバラク辞任と総辞職が大前提だというのが当初からの一貫した主張であるからだ。
 しかし、現実問題としては、民衆蜂起が13日目に突入し、それでなくとも逼迫している国内経済と困窮を深める市民生活にさらなる打撃を与える結果になっていることは事実であり、みんなかなり疲弊しきっていることはライブ映像を観ていても感じられる。そのなかで政府の「譲歩」の受諾如何をめぐり、もしかしたら運動内部に亀裂が走り、衝突が表面化することもありえるかもしれない。

 死傷者・逮捕者総数は、もう少し事態が落ち着いてから明らかになるだろうが、かなりの数にのぼることがすでに明らかになっている。当事者やその家族としてはそれへの対応もあるし、何より仕事をいつまでも休むわけにはいかない。失業中の者たちにしても、自分や家族がきちんと食べることができるようにすることが先決だ。休養もきちんと取らなければ、たたかいを持続させることはできないからだ。
 その意味では、今回のような大規模におよぶ行動が二週間にもわたり間断なく展開されてきたこと自体が驚異的である。今後の事態の推移は、昨夜の交渉結果がこれから反政府勢力内でどのように検討され、どのような統一的方針がまとめられるかにかかっている、と言えそうだ。

 一方、オバマやクリントンの動き、米国国内の主流メディアの論評、イギリス、フランス、イスラエルの動きなどもブツブツ文句を言いながら聞いたり、読んだりした。しかし、これらを含め何か断定的なことが言える状況にはまだない。事態は依然、流動的だ。もう少し見守ることにしよう。


「壊れる米国の大学」のこと

 これについては、独立ページをつくって整理する必要があると考えている。さしあたり、米国の中の「植民地」、プエルトリコの学生運動が昨年以来高揚していることを、ちょっとした情報として紹介しておこう。
⇒Puerto Rico Student Protests 2010/11(英語)