2015年8月12日水曜日

「必要最小限度の自衛の措置」って何?

「必要最小限度の自衛の措置」って何?


 少し、気になった文章がある。
 昨日付けの「日刊ゲンダイ」に掲載された、倉持麟太郎氏による「安保法案の欠陥を衝く/第1回 「必要最小限度に…」の礒崎補佐官の弁明は口先だけだ 」という論考のことである。
 私は、「礒崎補佐官の弁明は口先だけ」という倉持氏の見解に同意するし、「安保法案」に反対する文章全体の趣旨にも賛同する。気になったのは、「必要最小限度の自衛の措置」をめぐる氏の分析についてである。

 倉持氏は、このように書いている。 「日本は、自衛のための措置をとる場合、その措置は、必要最小限度の武力行使でなければならないのだが、実は新・旧3要件における「必要最小限度」は意味合いが違う。」
 なにが、どのように違うのか? それを倉持氏は「個別的自衛権」と「集団的自衛権」に分けて説明しようとする。まず、「個別的自衛権」。
 「個別的自衛権の場合、我が国に対する外国の武力攻撃があるわけで、目の前の火の粉を払うための「必要最小限度」は、ある程度明確である。火の粉を払いさえすればよく、しかも、この場合の自衛の措置は、自国で判断しコントロールできる」と倉持氏はいう。

 一方、「集団的自衛権」のケースではどうか。

 「日本は、存立危機事態を認定し、その存立危機事態を「終結させる」ために、集団的自衛権で攻撃国に対して「必要最小限度」の武力攻撃をする」わけだが、その場合には、
 「これは、ほぼ敵国の殲滅と同義であり、明らかに憲法9条の枠内で認められるべき「必要最小限度」 を超えてしまう。重要なのは、個別的自衛権の場合は、自国で判断できるが、集団的自衛権を行使し、他国の防衛と協働した場合、我が国だけでは判断もコントロールもできないという点だ」・・・。


 「日刊ゲンダイ」の読者は、この説明で納得しただろうか。
 なぜ、「個別的自衛権」では、「必要最小限度」の中身が「ある程度明確」であり、「自国で判断しコントロールできる」と言えるのか? 私には分からなかった。 「目の前の火の粉を払うため」だからだ、と倉持氏は言うのだが、それは「火の粉」の「粉」の実態、つまり「我が国に対する外国の武力攻撃」の性格やその規模如何によるのではないか。

 同じ疑問が、「集団的自衛権」の場合にも、言える。なぜこれが「敵国の殲滅と同義」であり、日本だけでは「判断もコントロールもできない」と言えるのか?
 早い話、「集団的自衛権」の武力による行使が、国法上可能な国家であれ、これをどの程度行使するかは、それぞれの国の「判断とコントロール」下にある。たとえば、トルコがNATO傘下の国家であるからといって、自動的に「集団的自衛権」をNATO諸国が発動したわけではないように、行使するかどうかそのものが、その国の政府の判断次第なのだ。
 また、行使した場合のその規模、期間なども、すべてその国の政治・経済情勢や、軍事力を含む総体的国力如何に規定される、と言えるだろう。

 総論的に言えば、倉持氏がこの文章の中で、安倍「安保法案」を「違憲」だと断言するその論法は、戦争と軍事のリアリズムの前では、かなり論拠薄弱なものになってしまっている、と私には思えた。これでは負けてしまう、と。


 日米安保と「必要最少限度の自衛の措置」 

 自衛隊の「本体業務」である、日本に対する「外部」からの「武力攻撃」があった際に行使する「必要最小限度の自衛の措置」とは何か?
 倉持氏が触れていないのは、 態様・規模・期間において、きわめて主観的で曖昧な、この「必要最小限度の自衛の措置」という概念と日米安保との関係である。いや倉持氏だけでなく、衆院、参院と続いてきた国会での「安保法案」をめぐる論戦の中で、ほとんど言及されていないのが両者の関係なのだ。 

 日本国憲法には、「自衛権」という言葉が存在しない。「武力」を持たず、ゆえにその「行使」もできない、まして「交戦権」も破棄した国家に、「自衛権」やその武力による「行使」という概念は「国権」の中に内包しようがないからである。 
 にもかかわらず、なぜ日米安保=武力としての在日米軍と「実力組織」としての自衛隊が存在するのか?
 これらを憲法(九条)解釈的に、つまりは「合憲!」というためには、どのようなトリックが必要なのか?
 そこで持ち出されたのが、「国家の自然権としての自衛権」なる概念だったのである。 
〈議論が深まらない社会 2015〉  「安保法案」廃案へ向けた議論を深めるために」につなげながら、検討を進めてみよう。


(つづく)


〈補記 -「安保法案」をめぐる混同と混乱〉
 「集団的自衛権」を関する上の記述に続く倉持氏の文章には、「安保法案」をめぐる若干の混同と混乱がある。
 誰もが陥りやすい誤りなので、述べておきたい。
 混同というのは、「存立危機事態」と「重要影響事態」の混同である。
 倉持氏は、「もし、戦闘の最中、日本だけが「必要最小限度を超えるから引き返す」と言えば、それこそ安倍首相の言う「世界の平和への貢献」 など画餅になる」と書いているが、ここには、やや「存立危機事態」と「重要影響事態」との混同がある。「集団的自衛権」の行使としての「存立危機事態」への対処は、 「世界の平和への貢献」のためになされるのではなく、日本の「存立」を維持するため、というのが安倍内閣の、一応の説明になっているからだ。
 もちろ ん、両者は、一部の領域で重なり合う側面はあるのだが、一応は区別されていることは正確に理解しておく必要がある。

 もう一点の混乱というのは、「集団的自衛権」の「フルスペック」論についてである。
 倉持さんは、「米国とともに他国の全ミサイル基地を叩くのであれば、政府自身が行使不可能と述べる、いわゆる「フルスペック」の集団的自衛権になってしまう」と書いている。しかし、安倍内閣は、同じように一応のところは、「「フルスペック」の集団的自衛権」は行使しないと断言していることを、きちんと踏まえておかねばならない。
 
 そもそも「集団的自衛権」の行使に、武力行使を伴う/伴わないよって、「フルスペック」=違憲、「限定的行使」=合憲とするような議論自体がナンセンスである。これに「フルスペック」も「限定的行使」もない。いずれも行使は行使なのだ。日本でしか通用しない「霞が関文学」の修辞上のトリックの欺瞞と、イリュージョンの虚構に、くれぐれも騙されないようにしよう。